コンテンポラリーという言葉は同時代性と訳すことが多い。コンテンポラリーダンス、コンテンポラリーアートなど様々な言い方があるが、今生きている私たちの現状を表すような作品を追求している人たちを指す。
今の時代に生きているということは様々な事件、災害、戦争など問題点を多かれ少なかれ共有しており、そこから問題意識を持ち、作品化するわけだから、ある程度共通項が生まれてくる。キーワードやジャンルなどで括ることもできるし、ある程度の傾向、流行も生まれてくる。当然作者自身、私もまた様々な作品を見て学ぶのだろうし。
ただ、たまに同時代のせいなのか、感覚が似すぎて混乱を来すことがある。意見を交わしていてとか作品を見て真似たということではなく、シンクロしていく。言語の時もあれば画像の時もあるし、感覚でそれはわかる。テーマや題材は全く違っても同じレイヤーが張られていたり、作品内に編み込まれていたり、そういう時織物的なものを思い出す(死者の書をやっていたのはここで生かされるのかもしれない)。
私の思考は私のものなのか、介入されたものなのか、あるいは何か同じ何かを見出しているのだろうか。本当に近いとちょっと気持ち悪くなって引きこもってしまう。似せようと努力しているわけではない。ましてや同じことを言おうと努めているわけでもない。言葉がそのままおりてくる。題材が現れてくる。神がかりのようだがそれでもその時代を的確に切り取っているのだろう。だから似てくる、そう思いたい。死者の書で扱っている内容はファンタジーワールドのようだが、今だからこその作品であることには変わりはなかったんだと少し落ち着いて見直すことができるようになってきた。
昨年作ったレクチャーパフォーマンスを友人が映像にするべく、分析し始めた。三回の上演を見比べると少しずつ変化をしながら、作品が深まっている様子がわかるという。それが私の危機意識の表れであり、今の時代の変化を表している。たった1年、されど1年。そういうことに気がつかせてくれる。一回織った織物をさらに解きつつまた編みこんでいく。投げ込まれた題材(1940年)を木野なりに捉え(明治神宮とオリンピック)、プロデューサーの趣味も入れながらああでもないこうでもないと模索して、また新たに糸が増えていく。こうして同じような感覚、考えを持つ人がだんだん増えていくのかもしれないと思う。3回の公演を繰り返すことはそのボールを投げ続けることでもあり、私たちの対話なのでしょう。1年のうちに3回も公演することは滅多になくて(鳥取での公開リハも含めると4回、各公演2回ずつ上演している)貴重な経験だったけれど、その繰り返しは確実に意味があるものでありました。(その対話はまだ続いている、多分)
何れにしても私の作品はソロ公演だけれど(しかもレクチャーはパワポだけで一人でも上演可能という省エネルギー作品)、一人で作っているわけではない。舞台上には一人しかいなかったとしても(死者の書は音楽家がいるので舞台上に3人いる)、対話でもある。言葉はあってもなくても。それがコンテンポラリーすなわち同時代性ということで、私たちのシンクロや感覚共有と同様に、今を生きるすべての人と繋がりうる可能性を持っているのではないかと私は少し信じています。
0 件のコメント:
コメントを投稿