2019年4月30日火曜日

平成の終わり

平成が終わる今日は建国体操ヲオドッテミタの撮影日でした。
学校業の隙間を見て撮影作業が続くので、結構時間がかかっているのですが、このゴールデンウィークはいい機会となりました。グローバル時代の国家と社会(鳥取大の教養授業で担当している)で元号や天皇陵の話を聞いたこともあり、なんだか色々考えてしまいます。
死者の書のプログラムノーツに挙げたように、退位をしてもこの世の中を見守るある種の抑止力となりうるようにと生前退位を望んだと私は思っています。祈ることが途切れることを恐れたその感触も、祈る人としての天皇の存在もある種芸能者と近く、私は何か親近感を覚えます。
この世の平和を願い、また祈る人が芸能者の原型だったはずだと。
芸能者は本来身分が低く河原乞食として扱われてきました。天皇は身分がたかそうですが、正しくはある種現世に生きる人ではないという判断だったのだと思います。お金の価値観では生きていないそういう存在。江戸時代的には士農工商以外の存在というのでしょうか。

明治神宮(建国体操)、赤坂御所(ゲーテ版)に触れながら、天皇制とはなんだろうかと再び考えます。やっぱり元号はあるんだとか、万葉集が原典でもないだろうとか(そもそも万葉集もかなり中国古典にもとを引いています)そんなことも思いますが、それ以上にこの人の生き方が気になってしまう。その役割を生まれながらに引き受けなければいけなかったというそういう人生を。

美智子さんに出会えたことはかなり幸せなことで、普通の感覚を持ち、普通に生きてきた人の存在はある種の革命であったと同時に救いでもあったはずです。どのような形であれ幸せに全ての人が生きる権利がある。生きましょ。みんなで。何を幸せと思うかは人により異なるのですが。




2019年4月29日月曜日

プラネタリウム劇場無事終了しました。

プラネタリウム劇場お越し下さった皆様ありがとうございました。実は鳥取市や県外といった遠方からもこの場所でしかみられないこの芝居を観にきてくださった方が多くいてすごく励まされました。
4回公演で各回70人定員だったのですがおそらく300人ほどが観てくださいました。結構すごいことです。ありがとうございました。

この場所と人とがいなければ成り立たなかったこの企画。
私たちの無謀なお願いに柔軟に対処してくださった米子児童文化センターの職員の皆さんに感謝します。
また制限された空間ではありましたが、それゆえの面白さ(音の響きや見る人の目の力、光の効果など)を味わうことができる素敵な場所でありました。そもそも椅子を倒したり、起こしたりしないし。
ここでしかできない、ここならではのという意味でもこれは是非また行えたらという企画です。

児童文化センターで遊んでいた子供達に声掛けをし、なんとなく劇場に入ってしまったそんな子供達から、もしかしたら次のスターが生まれるかもしれません。今回は銀河鉄道縛りはありますが、どんな場所も劇場になりうる、そして全ての人が参加しうるそんな試みを今後も続けていくのだと思います。
この銀河鉄道のたびは11月まで続きます。 出演者も募集していますが、運営、美術部も今後募集していきます。それぞれの興味とスタンスで是非ご参加ください。bit.ly/gintetsuentry

米子の児童文化センター、明日は「青空の金星を見よう」観測会が午前よりあります。今回の公演でファン急上昇中の森山さんの解説付き。こちらも是非お越しください。
http://yonagobunka.net/p/yonagobunka/jibun/purane/4/

普段の生活の延長線上に芸術がある。もっというと芸術と暮らしがつながっている、それって素敵ことだと思うんです。是非一緒に。

2019年4月28日日曜日

鳥取銀河鉄道祭米子公演

鳥取銀河鉄道祭は2019年11月に鳥取市で公演を迎えます。
そこに至るまで、この米子の土地から東に向かって鳥取県内を縦断します。

これまでとりアートは一つの大きな公演を作るために1年かけて作品作りをする場でした。東部、中部、西部の持ちまわりで開催し、大ホールで一回限定の公演を打つ。
私はこれだけの大きな公共資金をつぎ込むのであれば、より多くの人の参加を促したく、様々なリサーチやワークショップを含めた作品作りを提案しました。
これまで公募ではなかったとりアートメイン事業に投げかけたのです。

芸術は本来全ての人が成しうることです。
特別な人が行なってそれをみているというものではない。近代の芸術教育が作ってきた権威主義に疑問を投げかけ、人々の持つ創造力の平等性を示したかった。

今回協力してくださった米子児童文化センターの森山さんはその知識、経験を生かし、そのまま森山さんでありながら演劇シーンにも関わってくださいました。そのジャンルで当たり前な専門知はもしかしたら他の人にとってすごい発見であるかもしれない。この人がそのままでありながらでもすごく面白い、実は全ての人の生活はそういうものではないかと個人的には思います。

鳥取で活躍するひとたちは皆、仕事をしながら、でもこだわりを持って文化活動をしています。お金にこだわらないからこその強みで、面白いフェス、イベントを勝手に開く強さがあります。(で、そういう人たちをつながなきゃっていうのがあるんです)でももっと面白いのは普通だと思って暮らしているけれど、でもじつはすごいことを当たり前にしている人たちの存在です。先日のメガネの松本さんも衝撃でしたが、その専門知識、ちゃんと見出したらきっと面白い。

そのためリサーチやカフェミルキーウェイなど小さな集いを増やし、その中で関わる人を育てることにしました。情報を収集するためでもある。
芸術はそんなに特別なものではない。
生きる上での知識は全てArt(技術)につながっていて
自由に生きるための技術がLiberal Art(教養)である。
(賢治はそこまで広げていませんでしたが、鉱物やエスペラントやチェロ、かなり幅広く生活を豊かにすることを模索し、それを広げるべく羅須地人会を設定する)
鳥取だからこそ生活と芸術が結びついたようなある種の賢治の理想が作り出せるのではないか。そんなことを思い応募し、私はこの3年はしらなければいけなくなっています。

思えばどこから芸術は特別なものになったのでしょうか。
助成というなまえのサポートが与えられるようになった近代以降の話です。
(中世なども芸術にあたる分野はあったけれども少なくともパフォーミングアート系は能歌舞伎、狂言共にある種のパトロン(あるいはその恋心)によるサポートだった。つまり比較的原理はわかりやすい)
公共という概念や経済効果が盛り込まれるようになって、さて、私たちに本当に必要なものはなんだったのだろうかとなるのではないかと私は捉えています。

私は
最後に残るのは愛か宗教かとなるような気がしています。戦争や地震でこの命がなくなるとしても何を残したいか。誰に。その念のようなもので全ては回っていた。
そばにいたい、この人に幸せになってほしいそういう思いでこの世の中は回っていたそんなことを思います。

あやうい時制に鳥取から、すなわち辺境の地から、ある種の最先端を投げてみましょう。普通の人の生活にフォーカスを当てていくこと。
お高く止まった芸術ではなく、生きることとつくることがそのままつながる芸術を。

そして人々をつないでいきましょう。
小さな県だからこそ人のつながりで頑張らねばならない。

米子公演はあと1日。
お時間あれば是非どうぞ。




2019年4月26日金曜日

小屋入り

俗にいう小屋入りだけれど、私は学校の先生をしているので、授業に戻らねばならない。基本的に学校の先生以外のこととして今回の事業は扱われているため、学内事業を全てこなさねばならずとりあえず100km通勤を体験する。(鳥取大学→米子の往復)
しかも1時間に1、2本しかない電車なので、結構シリアスで、普通電車の時には2時間じゃつかないから大変なことになる。
だから肝心のところ見れないまま。
うーん、どうしたものかなあ。

明日よりプラネタリウム劇場。始まります。
鳥取を横断しながら進むこの旅は今日始まるようだけれど実は去年から続いている。私自身の銀河鉄道の旅はかれこれ8年。あと半年。一緒に走りましょう。

今日聞けてよかった言葉
「石炭袋からは星が生まれるんです。」(by森山さん(米子市児童文化センターの解説員))


2019年4月24日水曜日

明日より小屋入り

明日から俗に言う小屋入りです。
でも私は普通に学校があり、行ったりきたり100kmの往復です。その間に夏至祭チラシ校正と授業が待ってる。いろいろやばい。明日は中海テレビの朝宣伝しなきゃ。
ひそかに日本海ケーブルさんなどでてるらしい。とにかくはしりぬけよう。それがゴールデンウィーク前半。

昨日の夜はすごい嵐で、滋賀津彦さん怒ってるわ〜と思いつつ、私にできることはないんだなあと思うのでした。ごめんなさい。目がさめるのがやっぱり3時少し過ぎで、でも寝不足でもなく、アドレナリンがでてるきがします。覚醒状態は既にスタート。改元とゴールデンウィーク。いろんな意味で盛りだくさんです。私はというよりは周りが限界に挑戦かも。走るぞ、走ろう。





2019年4月18日木曜日

「人間は恋と革命のために生きるのだ」について再び

2018年のテーマ「人間は恋と革命のために生きるのだ」は太宰治の言葉。
作品を作るということは多かれ少なかれ社会を変えるために何かを投げることであるとわたしは捉えていました。が、どうも世の中はそうではないらしい。(先日の岸井さんトークから考えてました)
思っている以上に経済観念に動かされている気がします。
お客さんのウケ具合とか、集客とか、助成金取れるかとか。単純な娯楽のための踊りがあっても、エロ系に走るのもありかもしれないです。
でも、ものすごくシンプルなわたしのような個人活動のレベルの場合、お金あまり関係ないのではないかということに気がつきました。実際教会や学校や資料館で行なってきたパフォーマンスや作品は経済活動の心配はほとんどなかった。純粋にその場所の歴史や関わる人を知りたいという個人的な興味をもとに調査し、そこに関わる人に手伝ってもらいながら作品を制作し、発表してみんなで幸せだなと思うそういうものでした。
鳥取銀河鉄道祭を行いながら、いろんな経費がかかることに気がつきます。交通費や印刷費、郵送費、、、、舞台作品を作るのにはお金がかかります。やりたいことにお金をつぎ込む個人の趣味ではない分、集客などの実績も問われます。でもそもそもなんのためのものだったのだろうと考えさせられます。
純粋に楽しいからやっちゃう、そういうところに戻せないものだろうか。そもそもうまいとかうまくないとか、プロとアマチュアとかそういう線引き考え直したいと思って始めた鳥取夏至祭の主謀者(初年度に笑われた)としては、今回予算を得て動きながら、どこまでが予算として認められるのか、ありなのかずっと迷い続け戸惑っています。
本来はそんなややこしいことではなかったはず。純粋にただ大切な人に届けるためだけのもの。事業やビジネスとして成り立たせていかなければ皆の生活は維持できない。でも本当に大切なことはお金の価値観ではない次元だとわたしは思いたいです。

宮沢賢治好きですが、自己犠牲の思想はなんとかしてあげたく思ってきました。銀河鉄道は数少ない自己犠牲ではない作品です。蠍の話は出てきますが。彼が自分を受け入れ、死の世界を受け入れる過程の話で、だからこそ第4稿ではカンパネルラの死を(しかし彼は断定していない)受け入れ、かつ生きることを選べるようになりました。(賢治自身はかなり早くになくなりますが)
2019年のテーマは“何もない”になっていますが、わたしはそこにあるものを発見するために動いています。自己受容と言うのでしょうか。例えどんなことが起きたとしても全てはあるべきところに収まる。だから壊すこと、壊れることを恐れてはいけない。たとえ破壊し傷つけることがあったとしてもそれは新しい何かを生み出すことができるかもしれない。戦争を容認するということではないですが、最近この世の中の人々はそれを望んでいるのではないかと感じることがあります。破壊によってしか創造は始まらない。
少なくとも舞踊の神はそういうもので、でも私はそれがすごく嫌でした。死にゆく人も滅ぼす人も見たくはない。現代に生きる身としてはいつかを信じて、破壊ではない解決策を探り続けています。
ダンスハ体育ナリゲーテバージョンでは東京オリンピックの市川崑監督の映像冒頭を見せ、この破壊されていくその街を、弱者を扱ってきたのが舞踏ではなかったかと話しました。そんなわけで私はやっぱり作品とは革命だと捉えています。破壊ではなくかつ人を殺さない革命。
あ、恋心が混ざる時があるかもしれませんが。

2019年4月15日月曜日

芸術入門2019

250人以上の大教室でなぜか裸足の先生が一生懸命ダンスについて語る芸術入門、今年もやってます。
今年は美学美術史の筒井先生と一緒に半分ずつ担当しています。

前半ダンス

415
ガイダンス、
422
クラシックバレエ
57
舞台を観に行く(注)授業としては一回お休み
513
コンテンポラリーダンス、モダンダンス

520
舞踏
527
日本の伝統芸能 (能、狂言、歌舞伎「道成寺」を中心に)
63
民俗芸能の可能性(愛知県東栄町「花祭」、沖縄県竹富島「種取祭」を中心に)
610
コミュニティダンスの考え方

ダンスといっても幅広いんだよということでお隣島根のホーライエンヤ(10年に一度の祭り)なんかも紹介しています。
舞台を観に行く企画の一環で鳥取夏至祭や銀河鉄道祭も宣伝するんですね。

今日の授業では舞台の宣伝だけではなく、踊る前の身体の話をしました。マッサージしてみたら身体暖まったとか、ツボ押すと気持ちいいとかそんなことを座ったままだけれど実感してもらいながら身体って大事だよねという話をします。(実際に少しだけやってみます)

色々踊ってるとこうやって手を伸ばしたりもできるんだよ。(学生たち動揺)でもこれみんなできてもあまりメリットないでしょ?だから自分の身体が気持ちよくなる方法だけでも学べるといいよね。

AIとかでいま仕事とかどんどんなくなってしまうでしょう?でも身体は最後まで残るから、この身体に関わる仕事は多分今後も増えていく。経済効果だけでいったら芸術なんて無駄って言われてしまうけれど、仕事量が減っていく中で、いかに熱中し楽しみながら人生を過ごすことができるかは大切なことで、多様な生き方があることが豊かであるということを学んでいきます。弱い立場の人も表現ができるような社会へ。多様な表現が新しい何かにつながるかもしれない。大人になってもガチで遊んでいるような変な大人たちが実はたくさんいて、きっとそういう社会は可能なんじゃないかと信じている。
実際木野の経歴もうおかしいもの。(学生たちあぜんとしてる)

4年は短い。でもいろんなことができる。創造性の視点から想像力を働かせてみる。
やってみたいと思ったことはぜひなんでもチャレンジしてみたほうがいいです。

そんなお話をしました。私も4年目(この授業は3回目)なんと大学院を出てもう一回学部に入り直したのと同じだけの時間が過ぎるなんて。あっという間です。



鳥取は雨

鳥取はここのところ雨が続く。雪がほぼ降らない謎の冬を越えた途端、バランスをとるためか雨。夜のうちはほぼ毎日。学校に行かなきゃいけない平日昼はなんとか持ちこたえるけど(自転車通学は続く)。
そのせいか、今年はとにかく眠い。春眠暁を覚えずだろうか、一昨年、昨年のこの時期はとにかく謎のエネルギー量で走りにげたが、今年は突然意識がおちる。昏睡している時もあり、油断できない。
体力の低下かなとか、いろいろ考えるものの、ただ眠いだけではなく、まさしくおちるからちょっと困る。仕事的にも毎年のペースで考えて設定しているから間に合わない。いろいろ不具合。なんとかのりきる。


追記
ここしばらく天気のこと書くと翌日真逆になるという現象が起き、今日は晴れすぎる晴れ。楽といえば楽(自転車のみとしては)ですが、こればっかりは自然のことなので祈ったりはしないことにしている。雨も好きなんです。

芸術文化活動の継続のための経済性

銀河鉄道祭実行委員会とtottoの2周年記念パーティが連続であり、ついでに羽鳥嘉郎さんの出版記念トーク会(同僚の企画)も間にあって行ってきました。tottoの会は豊岡劇場の石橋さんのトーク付き。芸術文化活動の継続のための経済性について考えさせられる会でした。

現在tottoでは500円から始められるファウンディングを行なっていますが、ライターへの謝金などはなく、基本的に皆のボランタリーでの活動を行なっています。広告なども入れていないので、純粋なサイトの運営資金や交通費などの経費を集めようとしています。ボランタリーな活動だからこそ動く人の流れもあり、それは銀河鉄道祭でリサーチ対象としていたスペースの会(鳥取のミニコミ誌)とほぼ同じ考え方だと捉えています。自分たちがしたいことを自分たちで守るためにやっていく。今回の会場となっていた樗谿グランドアパートもそうですが、守ろうとする人たちの思いで回っているところがある。

しかしそれだけではなかなか回っていかないということで豊岡劇場はビジネスとして捉え、活発に活動を起こそうとしているし、羽鳥さんのように本を販売したり、イベントを開催していくこともおこる。お金を取る分それに見合う価値を作るということ。

銀河鉄道祭は公的な事業なので、結構な金額が動いています。それをちゃんと適正に使用していく必要があるし、できるだけ多くの人に情報を共有してもらい、享受してもらう必要がある。個人でやっているような小さな活動を紹介しながら繋ぎながら進んでいるけれども、一方で小さな活動をブルドーザーでつぶしかねない行為になってしまうとも思うのでした。
私自身は元々収入と支出の割合を鑑みて劇場以外での公演をはじめ、助成金に頼らない方法を模索してきました。たまたま建国体操が引っかかったけれど、自分の手で全部やる、Mobius(鳥取で初めて作った作品)まではチラシまで自力で作っていたし、照明も音も全てオンオペ(踊っているのに)という作品がいくつかあります。作りたいときに作るべきところと作るべき場所でやってきているので、結構いい作品もあると思っています。先日とあるところで批評などしている人と話をしていて、そういう(木野の個人的な制作)活動はなかったことになってるんだなと思いました。助成金取れてるか取れてないかで判断されちゃうし、どうしても広告規模から何から全然違うものになってしまう。
何を持って判断しうるのだろうと思うと考えてしまいます。

必要な人に必要なものを届けるというシンプルなことなのですが、経済効果ではおそらく最も効率が悪いと考えられる舞台芸術。良いとか悪いとかよくわからなくなってきたときに羽鳥さんの本(80年代の演劇について、しかもテントでも商業系でもない範囲のみ扱っている)が宿題のように残され、再び純粋な運動だった頃が見えてきたのでした。(上に記述したスペースも70年代から80年代なのでほぼ同じ時代設定)


岸井さんと終わったあとに近況を話したら、銀河鉄道、折口、建国体操ヲオドッテミタ(木野の発想順)はいずれもほぼ同時期かつ共通項が見られると。そういえば昨年のテーマは恋と革命、トークの中でも語られていたキーワードで、何かが起きる予感のようなものが現れているのかもしれません。
(ちなみに今年のテーマは“何もない”です)

このトークの前日同僚の社会学者さんに「演劇とダンスの違いは何か」という質問をされました。で、トークを聞く前にダンスも様々で舞台芸術となったときに観客という他者が発生し、ある種の集団性が生まれる。その集団性と踊りそのものの持っている個人的なある種の信仰や修行に近い部分は実は異なる。集団性のあるダンスは演劇のそれとあまり変わらないという答えをしました。演出というか見せるという概念の説明をし、死者の書でやっていることはそこではないことを見出してくれていてちょっと嬉しく思いました。
集団性、つまり社会性みたいなものは羽鳥さんの本でも冒頭から触れられています。なにせタイトルが「集まると使える」だから。
なお、このトークの中ではポストモダンが成立していない演劇ということが触れられて、もう一個違いを発見しました。
それはなぜ私はダンスなのかということでもあり、あえてダンスにどうみてもみえないところまできているけれど、ダンスであると信じることでダンスの新しい概念を拡張してきた自分にとって改めて演劇とは何か、ダンスとは何かを考えるきっかけになっています。
今から1年くらい前にはこんなことを書いてました。(多分演劇人と語って論破されるのが悔しくて文章化しようとしたんだと思われます)
https://saikino.blogspot.com/2018/07/blog-post_26.html
私はおそらく身体の人でありたいんじゃないかと最近思います。

2019年4月6日土曜日

そもそも何をするはずだったのか

前回野村誠さんが来た時に「そもそも何をするはずだったのだろうか」と問いかけられてここしばらく考えているけれども、
鳥取夏至祭と鳥取銀河鉄道祭は全く異なるもので目標なども異なっている。本当は延長上の思想として作っていたのだけれども、はっきりと別のものである。
そして私自身が個人的に舞踊を作ったり考えたりする上で最も気になっていることとも別物であるということが見えてきた。

鳥取夏至祭は
理念として
わたしたちは踊りたいから踊り、奏でたいから奏でる。音楽もダンスも美術も。今、ここで作り出されるその瞬間を楽しむために、プロもアマチュアも垣根を越えて、ただ遊ぶところから、全ては生まれるのだと思います。 
と書いており、ただ遊ぶのだということに特化している。
なので、公園や空き地、空きビルなどを転々としながら展開しているし、どちらかというと参加者と観客の交流と参加者同士のネットワーク形成のための会になっている。   実際にここで遊んだ経験をもとに関東圏、関西圏ともに公演やライブが開催されるようになったりする。
私自身としては最後に開催されるわらべ館ワークショップを作るための会であり、そこにすべてが集約されると考えている。こどもも大人も人として等しく一緒に遊ぶことができる。

鳥取銀河鉄道祭は
とりアートという県の芸術祭を評価する側であった時に、もっと多くの人にそもそも芸術を体験してもらう必要があるのではないかと感じたこと。また、それは特別な訓練をした特別な人のものを見るということではなく、誰もが主体として参加することができるような形が好ましいと感じたこと。そしておそらくその特別な芸術感は、「自分はできないから」「恥ずかしい」などの負の感情を生み出していて、私自身もそれはすごく残念だと感じたためでもある。大学時代を通じて私は自分が下手だからいけないんだとずっと感じてきたし、それはプロとして踊る経験を経た今でもそう思う。(ただし見せ方というか目指すものが違うのだということで大分理解できるようになった)
それぞれの身体、能力、得意なことを持ち寄って合わせてみたらできるものは必ずある。
完成形がはじめから決まっているとできないという言い方になるが、どういう形であれ、何かはできる。未完成こそ完成と宮沢賢治はいう。鳥取ならではの鳥取の銀河鉄道を作る試みである。
私自身が東部に現在いることもあり、西部や中部のことは知らないままになっている。鳥取全域に星座のような地図を描くこと。私自身がこの鳥取を知るために始めた試みでもある。

これら2点はいずれも多くの人がダンスあるいは表現活動に関われるようにはどうしたらよいだろうかということを考えて作ったものであり、会場も街中や屋外でできるだけ無関心層に触れる機会を作るべく工夫している。また、ある程度みせるダンスではあり、枠組みはかなりきちんとしている。

今、私が興味を持っている領域はおそらく身体感覚の共有の問題だと感じている。これはわかる人にはわかるし、わからない人にはわからないとなるのだけれど、ある程度身体について敏感になってくると場を共有していて大体考えていることがわかるようになる。さらにいうと場を共有していなくてもわかるようになる。波動のようなものでタイミングが合うとか気配がするとかそういうことに始まって、テンションの上がり下がり、体調くらいまではわかる。しかもそれが一人ではなく、何人かと連動しているので、(でも強く影響を受ける人と少しの人とがいる)うっかり油断できない。バランスを崩すとみんな自滅しかねないので、ある程度気を張って生きておかないといけない。あえて合わせないようにするということもできるけれど、多分ここまで離れていても共通項を持ち続けられるとすればそれはなんらかの真に近いところに触れているのだろう。だからそのままにしておいて、しばらく観察することにしている。(Mobiusの時にその何人かと連動している感じはすでに見えていたし、少なくとも5人になることはわかっていた。でも多分もっと多い)
先日は民俗舞踊の先生に1年ぶりにお会いしたらあなたのこと考えてたのよと話され、その弟子の知人にも偶然あっただけなのになんだか夢に出てきたのよと言われる。扉の90cmをすれ違う瞬間に気がついたり、振り返ったらいたりする。
一度共有感覚を持った人は大体わかる。
そして今の所空間は越えうる。時間についてはまだわからない。でも死者の書を読むとありえそうだ。
これは身体の感覚というよりは身体の中をどこまで見るかの問題ではないかと最近は感じている。内観にしても禅にしても、身体はミクロコスモス。その先を見ていくと、いろんな物事が芋づる式につながっていくのかもしれないと思っている。でもむやみにつなげるとまた大混乱なので、今で十分。今でもすでにパンクしそう。思えばここしばらく起こしているいろいろな活動はこの連動のバランスをとるために始めたものに過ぎなかったはず。
身体を探索する作業は終わりがなく、私はこの謎現象を証明するために昨年は2つの作品を作っていた。全く異なる仕事だし、実際の見え方はそんな内容には見えないけれど、私が何をみているのかと何がみえてしまったのかを探求するために作られたと言えると思う。
夏至祭も銀河鉄道祭もある意味自分の作品だけれど、鳥取の人々のために作ったものであり、鳥取の人と生きるために作っているものである。
昨年の2つの作品はそういう意味で人のためではなく、物事の証明実験のようなものであると私は思っている。おそらくある種の巫女性のようなもの、しかしそれは私が特殊だったからではなく、多くの人が本来有していた能力なはずだが、身体を使わなくなったせいか薄れてしまっているのではないかと私は捉える。それを持てるようにすることは現代ではあまり必要とされていないし、むしろ気持ちわるがられる可能性が高い(というか、いろんな支障が起こるし起こったし、私も混乱した)が、すでに起きてしまっているこの現象をもう少しきちんと理解したい。理解というよりは自分で自分を納得させたい。受け入れられるようになることがおそらくここしばらくの課題であると思う。

かつて振付家に「いるだけでいいんだ、手を広げるだけで」と言われてでもそれはとてもとても悔しかったし、できないからだと思ってきた。それは身体の線がとか手の長さがということではないらしいことがだんだんわかってきたが、それは何かを誰も説明ができないままいる。私が私ではない、ここではない生を同時に扱っているとしたらそれは異なる存在感に見えるだろう。
秘密を模索し続ける密教のようなものにひかれてしまうのはこの模索の感じは似ているからかもしれない。言語化できないこの身体の感覚をどう捉えるか。それをしている。




2019年4月4日木曜日

鳥取銀河鉄道祭米子公演チラシ

鳥取銀河鉄道祭米子公演チラシができました。
ちょっと地味?でも実は銀色も入ってます。鳥取夏至祭なども手がけるうかぶLLC三宅さんの作品です。いつもありがとうございます。

今回予想以上に長く時間がかかってしまい、デザインの一新などもあり遅くなりましたが、送って欲しい方、宣伝協力いただける方ぜひご一報を!よろしくお願いします。