平成が終わる今日は建国体操ヲオドッテミタの撮影日でした。
学校業の隙間を見て撮影作業が続くので、結構時間がかかっているのですが、このゴールデンウィークはいい機会となりました。グローバル時代の国家と社会(鳥取大の教養授業で担当している)で元号や天皇陵の話を聞いたこともあり、なんだか色々考えてしまいます。
死者の書のプログラムノーツに挙げたように、退位をしてもこの世の中を見守るある種の抑止力となりうるようにと生前退位を望んだと私は思っています。祈ることが途切れることを恐れたその感触も、祈る人としての天皇の存在もある種芸能者と近く、私は何か親近感を覚えます。
この世の平和を願い、また祈る人が芸能者の原型だったはずだと。
芸能者は本来身分が低く河原乞食として扱われてきました。天皇は身分がたかそうですが、正しくはある種現世に生きる人ではないという判断だったのだと思います。お金の価値観では生きていないそういう存在。江戸時代的には士農工商以外の存在というのでしょうか。
明治神宮(建国体操)、赤坂御所(ゲーテ版)に触れながら、天皇制とはなんだろうかと再び考えます。やっぱり元号はあるんだとか、万葉集が原典でもないだろうとか(そもそも万葉集もかなり中国古典にもとを引いています)そんなことも思いますが、それ以上にこの人の生き方が気になってしまう。その役割を生まれながらに引き受けなければいけなかったというそういう人生を。
美智子さんに出会えたことはかなり幸せなことで、普通の感覚を持ち、普通に生きてきた人の存在はある種の革命であったと同時に救いでもあったはずです。どのような形であれ幸せに全ての人が生きる権利がある。生きましょ。みんなで。何を幸せと思うかは人により異なるのですが。
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