2019年4月28日日曜日

鳥取銀河鉄道祭米子公演

鳥取銀河鉄道祭は2019年11月に鳥取市で公演を迎えます。
そこに至るまで、この米子の土地から東に向かって鳥取県内を縦断します。

これまでとりアートは一つの大きな公演を作るために1年かけて作品作りをする場でした。東部、中部、西部の持ちまわりで開催し、大ホールで一回限定の公演を打つ。
私はこれだけの大きな公共資金をつぎ込むのであれば、より多くの人の参加を促したく、様々なリサーチやワークショップを含めた作品作りを提案しました。
これまで公募ではなかったとりアートメイン事業に投げかけたのです。

芸術は本来全ての人が成しうることです。
特別な人が行なってそれをみているというものではない。近代の芸術教育が作ってきた権威主義に疑問を投げかけ、人々の持つ創造力の平等性を示したかった。

今回協力してくださった米子児童文化センターの森山さんはその知識、経験を生かし、そのまま森山さんでありながら演劇シーンにも関わってくださいました。そのジャンルで当たり前な専門知はもしかしたら他の人にとってすごい発見であるかもしれない。この人がそのままでありながらでもすごく面白い、実は全ての人の生活はそういうものではないかと個人的には思います。

鳥取で活躍するひとたちは皆、仕事をしながら、でもこだわりを持って文化活動をしています。お金にこだわらないからこその強みで、面白いフェス、イベントを勝手に開く強さがあります。(で、そういう人たちをつながなきゃっていうのがあるんです)でももっと面白いのは普通だと思って暮らしているけれど、でもじつはすごいことを当たり前にしている人たちの存在です。先日のメガネの松本さんも衝撃でしたが、その専門知識、ちゃんと見出したらきっと面白い。

そのためリサーチやカフェミルキーウェイなど小さな集いを増やし、その中で関わる人を育てることにしました。情報を収集するためでもある。
芸術はそんなに特別なものではない。
生きる上での知識は全てArt(技術)につながっていて
自由に生きるための技術がLiberal Art(教養)である。
(賢治はそこまで広げていませんでしたが、鉱物やエスペラントやチェロ、かなり幅広く生活を豊かにすることを模索し、それを広げるべく羅須地人会を設定する)
鳥取だからこそ生活と芸術が結びついたようなある種の賢治の理想が作り出せるのではないか。そんなことを思い応募し、私はこの3年はしらなければいけなくなっています。

思えばどこから芸術は特別なものになったのでしょうか。
助成というなまえのサポートが与えられるようになった近代以降の話です。
(中世なども芸術にあたる分野はあったけれども少なくともパフォーミングアート系は能歌舞伎、狂言共にある種のパトロン(あるいはその恋心)によるサポートだった。つまり比較的原理はわかりやすい)
公共という概念や経済効果が盛り込まれるようになって、さて、私たちに本当に必要なものはなんだったのだろうかとなるのではないかと私は捉えています。

私は
最後に残るのは愛か宗教かとなるような気がしています。戦争や地震でこの命がなくなるとしても何を残したいか。誰に。その念のようなもので全ては回っていた。
そばにいたい、この人に幸せになってほしいそういう思いでこの世の中は回っていたそんなことを思います。

あやうい時制に鳥取から、すなわち辺境の地から、ある種の最先端を投げてみましょう。普通の人の生活にフォーカスを当てていくこと。
お高く止まった芸術ではなく、生きることとつくることがそのままつながる芸術を。

そして人々をつないでいきましょう。
小さな県だからこそ人のつながりで頑張らねばならない。

米子公演はあと1日。
お時間あれば是非どうぞ。




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