2019年4月18日木曜日

「人間は恋と革命のために生きるのだ」について再び

2018年のテーマ「人間は恋と革命のために生きるのだ」は太宰治の言葉。
作品を作るということは多かれ少なかれ社会を変えるために何かを投げることであるとわたしは捉えていました。が、どうも世の中はそうではないらしい。(先日の岸井さんトークから考えてました)
思っている以上に経済観念に動かされている気がします。
お客さんのウケ具合とか、集客とか、助成金取れるかとか。単純な娯楽のための踊りがあっても、エロ系に走るのもありかもしれないです。
でも、ものすごくシンプルなわたしのような個人活動のレベルの場合、お金あまり関係ないのではないかということに気がつきました。実際教会や学校や資料館で行なってきたパフォーマンスや作品は経済活動の心配はほとんどなかった。純粋にその場所の歴史や関わる人を知りたいという個人的な興味をもとに調査し、そこに関わる人に手伝ってもらいながら作品を制作し、発表してみんなで幸せだなと思うそういうものでした。
鳥取銀河鉄道祭を行いながら、いろんな経費がかかることに気がつきます。交通費や印刷費、郵送費、、、、舞台作品を作るのにはお金がかかります。やりたいことにお金をつぎ込む個人の趣味ではない分、集客などの実績も問われます。でもそもそもなんのためのものだったのだろうと考えさせられます。
純粋に楽しいからやっちゃう、そういうところに戻せないものだろうか。そもそもうまいとかうまくないとか、プロとアマチュアとかそういう線引き考え直したいと思って始めた鳥取夏至祭の主謀者(初年度に笑われた)としては、今回予算を得て動きながら、どこまでが予算として認められるのか、ありなのかずっと迷い続け戸惑っています。
本来はそんなややこしいことではなかったはず。純粋にただ大切な人に届けるためだけのもの。事業やビジネスとして成り立たせていかなければ皆の生活は維持できない。でも本当に大切なことはお金の価値観ではない次元だとわたしは思いたいです。

宮沢賢治好きですが、自己犠牲の思想はなんとかしてあげたく思ってきました。銀河鉄道は数少ない自己犠牲ではない作品です。蠍の話は出てきますが。彼が自分を受け入れ、死の世界を受け入れる過程の話で、だからこそ第4稿ではカンパネルラの死を(しかし彼は断定していない)受け入れ、かつ生きることを選べるようになりました。(賢治自身はかなり早くになくなりますが)
2019年のテーマは“何もない”になっていますが、わたしはそこにあるものを発見するために動いています。自己受容と言うのでしょうか。例えどんなことが起きたとしても全てはあるべきところに収まる。だから壊すこと、壊れることを恐れてはいけない。たとえ破壊し傷つけることがあったとしてもそれは新しい何かを生み出すことができるかもしれない。戦争を容認するということではないですが、最近この世の中の人々はそれを望んでいるのではないかと感じることがあります。破壊によってしか創造は始まらない。
少なくとも舞踊の神はそういうもので、でも私はそれがすごく嫌でした。死にゆく人も滅ぼす人も見たくはない。現代に生きる身としてはいつかを信じて、破壊ではない解決策を探り続けています。
ダンスハ体育ナリゲーテバージョンでは東京オリンピックの市川崑監督の映像冒頭を見せ、この破壊されていくその街を、弱者を扱ってきたのが舞踏ではなかったかと話しました。そんなわけで私はやっぱり作品とは革命だと捉えています。破壊ではなくかつ人を殺さない革命。
あ、恋心が混ざる時があるかもしれませんが。

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