2020年6月5日金曜日

ホドロフスキーさん

ホドロフスキーのインタビューを見る。
パンデミック時代に捧ぐ「アレハンドロ・ホドロフスキーのサイコマジック説法」
噂のドミューンを初めてみました。宇川さん佐渡島でお会いしたけれど、こんなことをしている人だったのかとちゃんと知った(遅いかもしれない)。

ホドロフスキーさん、昨年の愛知トリエンナーレの展示を見ていて、とても興味を持っていたし、映画も見ているので(まだサイコマジックは見れていない)、大体予想はしていた。しかし、改めて、一雄さんのよう。(きょうたまたま学生さんに「美と力」を見せていた)
やっていることも舞踏的。
見た目的な解放か精神の解放かの違いであって、根本的にはすごく似ている。知性からの離脱。そして全宇宙との接続。統合。
コロナウィルスもサイコマジック。そうですよ。
驚異のようだけれど、でも神あるいは地球からしてみたら人間の方が驚異で、あまりにも人は増えすぎ、拡大しすぎている。見直したほうがいいと言うお告げのようなものに感じる。それはここしばらく起きている地震や災害も含め、誰かを選ぶことはできないので無差別に起きる、そう言うこと。
長い歴史の中で人類はこのような危機を何度も迎えてきた。
そんな中で生き延び、そして生き延びるために沢山の芸術が生まれた。思想であり、哲学であり、知恵でもある。だから危機的状況こそ新しいものが生まれる。そして作り続けなければいけない。
宮沢賢治なんかもそうだけれど世の中の摂理を感じる人は大きな時代の流れを見ている。それは今のことではなく何十年もあるいは何千何万年と先を見越した話で、何万光年と離れた宇宙のどこかの双子の星や、何億年昔の鉱物と対話をし続けているようなところがある。
一見辛い、苦しいことであっても、それは何らかの試練で、乗り越えることができるからこそ与えられる。静かに時が過ぎるのを待ちながら、ちゃんと自然の中の一部として生きることを考える。
おそらく今の形の経済中心型の生活は歪みしか生み出さないことを鳥取人は知っている。でもお金は必要と思っている。そのお金の得る先が税金にぶら下がるしかなく、お友達に
助けてもらう。公的資金で動くものは結局、調査、評価する人と知り合いかどうかでかなり決まってしまう。でもそこでお金のことを置いておいたらどうだろう。
自分が行いたいことを応援してくれる人からの支援をベースにし、そもそも行うことの予算と規模を少し変えてみる。本当に必要なことはもしかしたらあなたと私、それだけでいいはずだ。
サイコマジックで行っていることは私の作品作りに似ていて、ただ、私は自分でそれを続けていると言うことだ(ホドロフスキーは自分で行うとエゴに偏る可能性を指摘している)。人に応用しようとすると崩壊するので、まずは自分が実験台。

自己受容と肯定のための作品。
ちゃんと生きてちゃんと死ぬための作品。

セラピーのような、当事者研究のような作業だが、本来それはお金もかからず、自由な活動であった。私にとっては生きるために必要だったからだし、おそらく必要な人には必要だけれど必要ない人にとっては必要ないものにすぎない。一般にも公開しながら、黙々と続けていく。

これまでも書いてきたことだけれど、改めて、そう思う。
なぜ、それが当たり前でないのか。
すべての人の身体に答えはあるのに。
私たちは皆等しく宇宙と、世界と繋がっていて、いろんなものや人と一緒に動いているのに。
皆、ちゃんと身体と対話をしたほうがいいと思う。



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