2012年6月23日土曜日

考える身体

「考える身体」
三浦雅士さん(ダンスマガジンの元編集長でしたね)の論考。
先日黒田なっちゃんのアフタートークの司会に引っ張りだされたときにこれをテーマにぜひ話してほしいといわれ、30分前に渡されるものの(B4で3枚)、10分や15分のトーク(しかも中学生高校生向け)には適さないと思い、おいておいたもの。
ダンス人はまず間違いなく目にしているだろうこの原稿と国語の先生からの質問より書いておこうと思う。

本文は身体を忘れたオリンピック、芸術スポーツの可能性、老いの感動という3つの章よりなっている。
「人は皆死ぬ。この事実に耐えるために、人は踊ってきた。スポーツにしても同じである。人はそこで戦いの経験、死の体験を先取りしているのだ。ダンスを見、スポーツをみるということは、その体験をともにするということである。それは生きることの意味を全身で感じ取るということに他ならない。芸術スポーツの登場とともに、この問題が深く考えられるようになったのである。」
という部分についてぜひ語ってほしいというのが依頼でした。
依頼からは離れてしまいましたが、いくつか書いてみます。


①そもそも人はなぜ踊るのだろうか
舞踊の紀元は諸説ありますが、一般に「言葉以前の伝達手段としての身体表現」からスタートしたといわれています。また、稲作が始まり、思うようにならない自然に対する祈りから始まったともいわれています。
また、踊ること自体が快楽であり、本能の一種であるという声もあります。
「楽しかったから」「気持ちよいから」それはそれでわかりやすいです。

②今、なぜ人は踊るのか
ダンスときいてどんなダンスを思い浮かべる?ときいたらAKBとかKARAなどなどアイドル歌手の名前が挙がりました。そう、町の中には既にダンスがあふれているのです。テレビCMをみてみましょう、ほとんどのCMにダンスの要素が入っています。なぜここまでダンスがはやるのか。
私は生活の機械化により動かなくなった身体がその背景にあると思います。「人はこんなにも動けるんだ」という驚きが感動を引き起こすのでしょう。実際研ぎすまされた競技者•ダンサーの身体、動きは美しいと感じさせます。
一般の人の中にもオリンピック選手みたいにはなれないけれどといいながら、様々な踊りを楽しんでいる人が多く出てきています。私はコンテンポラリーダンスというマイナーなジャンルにいますが、フラメンコ、フラダンス、ヒップホップ、ジャズ、社交ダンス、サルサなどダンス全般をあげれば本当に多くの人が踊っているのです。
「かっこいいから」
「やせたいから」
と人はいいます。
では「かっこいい」とは何なのでしょう。

③かっこいいとは
平安時代は下膨れのかおや太っていることが美徳であったことを出すまでもなく、「かっこいい」という概念も時代によって変化しています。
同様に「美しい」「面白い」も変化していきます。
しかしながら、普遍的な何かというのは世の中にあって、芸術家と呼ばれる人たちはそれを追求しています。今の時代で世界に通じるものを作り出そうという人もいますが、多くの人は時代を超えるものをみています。
本文に出てくる芸術スポーツ(フィギュアスケートや新体操など)のように3回転か4回転か、足の上がる角度が180度か200度かといった技術はわかりやすく差がつきますが、(AしかできないよりはAもBもできる人の方が上であるというような)それだけでは判断ができないのが難しいところです。
芸術スポーツとダンスの違いはそこにあると思います。「なんだかよくわからないけれどすごかった」「なんとも説明ができないけど感動した」時代を超える普遍性の可能性はそこにあると思います。

④舞台芸術の難しさ
その瞬間を作り出すために芸術家と呼ばれる人たちは努力をし続けます。絵を描いたり、音楽をつくったり、小説を書いたり、すべての芸術活動が含まれます。ダンスもしかり。しかしダンスあるいは舞台芸術とよばれるジャンルは、その瞬間に生まれ消えていってしまいます。
小説や絵ならあとからみなおして再評価されたり、その後書いたものと比較検討できますが、舞台芸術は現在進行形で消えていってしまいます。
ビデオがあるという声もありますが、ビデオでは「なんだかよくわからいけれど」「なんとも説明できないけれど」の部分は伝わらないのです。
なので、みている人が必要になります。
みた人が伝説をつくりあげていくのです。
小説や絵のように(音楽については楽譜にのこせるという声もありますが半分パフォーマンスなのでここではおいておきます)かたちに残らないかわりに、みた人もひっくるめて作り出していくのです。
すべての出会いは一期一会。
日本ではそういう概念はあまりないのかもしれません。
みたときに感じたことを話すのは恥ずかしいと思うのかもしれません。でもその一言が次のダンスをつくっていくのかもしれないのです。うまく説明できなくとも、ネガティブな感想でもその時間を共有したということを大事にしてほしいと思います。

⑤テレビなどの映像と生の身体
テレビなどのマスメディアの影響は大きいです。有名になりたい、ああいう風になりたいとまねをする子供たちもたくさんでてきます。Jリーグが始まってサッカーの人気が高まったように、ダンスがテレビにでることでやってみたいと思う子供が増えるのはうれしいことです。きっかけは何でもいいのです。ただ、そこからいろんなダンスにふれてほしいとは思います。
生の身体でのパフォーマンスは④であげたように消えていってしまいます。しかしながら、そこでそのパフォーマー(ダンサー)と時間を共有したという記憶が残ります。小劇場でのパフォーマンスは特に。観客からボールを投げ返すということができるその距離感は今の時代だからこそかえって大切なのではないかと思っています。


⑥「若いとはすばらしいことなのか」
三浦さんの論考は最終的にヨーロッパ近代の「人間が自然を支配するように意識が身体を支配する」「若さを美徳とする」考え方に疑問をなげかけ、「おのずから生成消滅する自然の声に謙虚に耳を傾ける」日本的な考え方を示唆して終ります。日本舞踊井上八千代の例を挙げていますが、武道、能狂言、歌舞伎どのジャンルでも「老い」は負の要素ではないと話しています。
私の身体表現法の授業の中で舞踏の話しをするときに特徴として2点をあげています。外から見たかたちではなく心で思い描いたイメージを重視した点と老いや死、貧しさといった社会的に闇と考えられていた部分にフォーカスを当てその中に新しい美を見いだした点です。
舞踏の考え方は現在海外の舞踊家、舞踏家に受け入れられています。本来の土方さんが考えた思想とはかわってきてしまっているかもしれませんが、それでも広がっていきました。大野一雄さんは今でも伝説として語られ、同じ日本人だというだけで何度となくきかされてきました。
たまたまですがヨーロッパ時代にお世話になったラッセルさんは50歳をすぎた今も現役で舞台で踊っています。舞踏に関心を持ち、どこから入手したのか山海塾の写真集までもっていたくらい日本好きでした。(シルヴィーさんもそうですね)この論考が発表されて10年以上がたち、その間に少なくともコンテンポラリーダンス業界ではかなり「老い」をとらえているように感じています。NDT3のような例、ピナやガロッタのように60歳以上だけで構成したピースの制作(なお、現役世代や子供たちとの比較も行われている)もありました。
すべては何を見せたいか、何がテーマかによるもので、幅広い年齢層のダンサーが存在するようになってきました。コンテンポラリーダンスがたかだか30年ほどしか歴史を持っていないだけにまだまだこれから増えていくことでしょう。


⑦再びなぜ踊るのか
高度成長期がおわり、バブルを体験し、文明という点では成熟期にはいってきました。
本文中三浦さんは生産から消費という言葉の使い方をしていますが、消費もしない、省エネルギーの時代へと入っていくと思います。現在ある資源を生かしながら、こころ豊かに暮らすためにどうしていくか。たくさんものがあっても、お金があっても、長く生きても幸せとは思えないのはなぜか。老いを受け入れていく日本の伝統芸能の考え方は一つのヒントかもしれません。老いを受け入れるためには無駄なものはできるだけ排除していかなければいけません。いかにシンプルに。まさしく省エネルギー。

私はダンスというジャンルにいますが哲学のようになってきました。ダンスとして何を思い浮かべるかは人それぞれです。私にとっては哲学や宗教も近いところにあり、ダンスと名前がついていますが生活すべてがつながっているのです。あくまで私の個人的な考え方で、すべての人にとってというものではありません。
ただ、ダンスを通してもそのように考えることができるというだけです。


その昔ダンスの紀元が祈りであったように、きっと私は考え祈り踊り続けていくのでしょう。







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