2012年6月23日土曜日

からたち その後

時間が経ってしまいましたが「からたち」ご覧下さった皆様ありがとうございました。
様々な感想をいただいています。
ウェブ上にでているもの
茶会記福地さんのコメントhttp://gekkasha.modalbeats.com/?cid=42168
月羊記http://hiro-moon.at.webry.info/201206/article_2.html

アンケートの回収率が高いと受付担当小島さんより驚かれました。厳しいご意見もありますが、それもまた自分の糧。またがんばっていこうと思います。

さて、いくつかあるコメントの中から気にかかるものを。

①きのさん、やっぱり即興の方がおもしろいんじゃ、、、。
ダンスクラシックも見に来てくれたsentival!参加団体の方より。
「それをいっちゃあ、おしまいよ」と返しましたが、即興の方が面白いというのは昔からいわれていることです。記憶に問題がある分、考えないで動き、それを変容させていく方がはるかに面白いものになる可能性があります。でもそれではダンサーとしてまずいので、作品をつくる努力をしています。
過去の作品でも振り付けがほとんどないかたちで構成を作り上げている物があります。(オリジナル版のEdgeなど)
パッヘルベルは即興です。

②台詞覚えの悪さというよりはシェークスピアだったからしょうがないよ
作品内に台詞覚えの悪さについて語るシーンがあり、それが何を意味しているかわかったのは高校時代の友人だけでしょう。シェークスピアの3時間半の作品の3ページ半ならいいのかといえばやっぱりだめだと思います。。。
シェークスピアというだけではなく、基本的に覚えるということがとても難しいです。今でも授業でするべき内容をその日の朝にリハーサルしてから授業にいくような有様です。たとえ「むすんでひらいて」でも油断できません。
ラッセルカンパニーにいる間に大分ましになりましたが、逆に海外の場合は振り付けを覚えるだけの時間をかけることができます。
こちらに帰ってきて作品をつくるときはたいてい家にこもってつくっていますが、かなりの時間をかけて(くりかえしを経て)作品をつくっています。練習場所が家なので朝から晩まで、たまに深夜までです。本当に。やっていること簡単なんですけれどね。

③その台詞覚えの悪い人がどうやって覚えているのか
まず動きをつくっていき、その動きにあわせて台詞を思い出していきました。
型のようなものをつくり、これをしたらこの話しをするということで覚えています。通常の逆ですね。ちなみに「からたちの花」の歌もまだ歌えません。
また、個人の話しをしているのと、脚本家がいないので多少つけくわえられたり、へったりしてもゆるされるのですが、それにたいする詰めが甘いという声もあります。


④やはり感傷にすぎないのではないか
⑤一般の人を巻き込んだにしてはよい事例。
⑥一般の人がでてきても何も物語らない。
今回の作品はAMANOGAWAのシーンへといかにつないでいくかを考えて構成されています。個人の歴史→それぞれの人の歴史→観客へと広めていくと拡散していくかたちをとっています。時間的には短いのですが、AMANOGAWAの皆さんの身体にポイントをおいています。できるだけばらばらの、トレーニングされていない身体(本当はダンサーさんも混ざっているのですが)で行うことに意味があると考えています。
中途半端にトレーニングしている身体くらい気持ち悪いものはないと思います。でもだからといってある程度の年齢からできることというのは限りがある。であれば発想、視点の転換で勝負をするしかありません。私自身があまりよいダンサーではないので、そんなことを思います。

たまたまというかそれもまた必然なのか、私は小さい頃からダンスに触れてきました。が、世の中にはダンスとは関係なく「いるだけで面白い」人がいます。「いるだけで物語ってしまう」人はダンスのトレーニングとは関係なくうまれてきます。
ダンサーや役者になるためのトレーニングとは様々な役をやれるキャパシティを広げるためのものです。が、それは個性を減らし、プレーンな状態にしていくことでもあります。まさしく一般のダンスのクラス、大学での授業などはそういう視点でつくられています。(私はその中に入れずにいました、長いこと)

しかし今の時代一般にとって必要なのは自分の身体を知り、自分を受け入れていく、信頼していく作業ではないか。みんなで一つの物をつくる「よさこいソーラン的な」達成感も大切ですが、自分と向かい合う時間をもつということが大事なのではないかと考えています。そういう所から個人の存在感は生まれるのではないかと。
AMANOGAWAは短い時間で作成しており、継続性ということは考えていなかったのですが、個人的にとても興味深いプロジェクトなのです。

なので、何らかのかたちでつくり続けていきたいと考えています。

演劇サイドの方からは後半のシーンは好評で、ダンスサイドの方からは「素人でしょ」という声になるところがとても興味深く思っています。


⑦なにかが足りない
何かが足りない、ではそれは何か?
だから私は踊り続けていれるのかもしれません。
作品中大学時代の同期の話しが出てきましたが、その多くが結婚したり、指導者になったりと踊りからはなれています。何かが足りないままだからこそ、私はまだつくらねばならず、今に至ります。
破綻のようなもの、意外性という声もありました。
が、そのような破綻は私が自作自演でつくっている以上考えだした時点で破綻ではなくなります。つまり他者の存在がなければ難しいと私は思っています。それは音楽・照明などのスタッフかもしれないし、演出家かもしれません。
「でもいつかはのりこえなければいけない」
銀河鉄道が中止になり、その話しを報告したときにいわれた言葉です。一人をのりこえなければいけない。
からたちはすべてを一人で行う作業でもありました。構成演出ということだけではなく、制作的な作業も含め。多くの人に手伝っていただきましたが、大本はすべて握って。この作品自体が「自分について語る」しかもできるだけ一般的な事象だけを使ってたんたんと、というのがテーマだっただけに、一人ですべてつくっていくのは必然でもありました。ここからすこしずつ広げていくというのが目標です。


お越しいただいた皆様、本当にありがとうございました。


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