2014年3月22日土曜日

ヨーロッパロンドン編⑤コミュニティダンスと静岡のコミュニティダンス

英国のコミュニティダンスはもちろん作家(アーティスト)の興味から生まれたものである一方、助成金申請段階で「社会への影響」を求められることが影響している。
クリスとの対話の中で「ローズマリーリーのように丹念にリサーチを行い、その土地に根付いた作品をつくる作家もいるが、そういう事例ばかりではない」「作家の方針を拡大していった結果たまたまコミュニティとの作品制作になった場合は上手くいくことが多いが、そうとは限らない。助成金故に計画されたものもある」という話しがでてきたし、
グエンとの対話でも「(前出のようなスポーツなどと結びついたイベントなどであったとしても)いいものをみせなければ続いていかない」という言葉がでてきた。
つまり、コミュニティダンスとはいえクオリティは問われる。
つまり地元のバレエ(ダンス)教室の発表会ではないもの。
さらにその人その場所でなければできないというもの。

今日静岡ダンス王国建国イベントをみにいった帰り、友人と話したもののうち
「コミュニティダンスと地元のダンスのお稽古場の発表会はどこが違うのだろうか。」

「例えばジェロームベルやマギーマランなどのように一般人を使ったダンス作品は確かにある。が、あれはコミュニティダンスとはいわない。だとするとコミュニティダンスとはなんなのか??」
という素朴な疑問がきにかかった。

更にある一定のコミュニティダンスは将来的に継続性が問われるようになっていくだろうと考えられるが(静岡の事例でも既に活動開始から5年以上が経過している)、継続すればするほどダンサーはダンサー化し、プロフェッショナルのいない日本では「コミュニティダンス」と区別することができなくなっていくだろう。
では、逆にプロフェッショナルとはなんなのだろうか。

その昔アシュフォードにこんなことをいわれたことがある。
「しかしそのダンスを成り立たせるためにsaikoの視点が必要だ、それが振付家の視点であり、だからプロフェッショナルとして成り立つ」
私踊っていていいのだろうかと思ったときには戻ってくる結構大事にしている言葉の一つだ。

今回のシンポジウムで稲田さんがコミュニティダンスは既成の「よいわるい」を飛び越えた新しい何かを生みだす可能性があると話していた。
確かに。しかし新しければいいということではなく「人の心を動かす」ものであるべきだと思う。それが笑いであれ、感動であれ。素人だろうが何だろうがすごいものをつくったものがち。すごいって何だろうか。
楽しいから踊っているだけではそういうところは見えてこないと個人的には思っている。

更に5年目を迎えるタカセの夢はいったいどこへ行くのがいいのだろう、と話す。
今年は何を目指していこうか。
タカセの夢はコミュニティダンスか?という疑問は大きいが、私はヨーロッパ的な感覚では確実にそうだと考えている。この活動が私たちを家族のように結びつけるようになった点でも。



コミュニティダンス、まだまだ学ぶことは多いです。




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