2019年5月2日木曜日

ゴールデンウィーク後半

ちゃんと晴れた!
最近は晴れ率が上がっているような気がします。(とかいうと雨が降ったりするから油断できない。でも多分今回は大丈夫だと思う)

ゴールデンウィーク後半は山口に運動会を作りに行きます。
(運動会ハッカソン)
体育からスポーツへ変化するけれども、勝ち負けではない面白さを出していくことができれば私のこのモヤモヤは払拭されるのではないかと。
ただそもそも耽美派というか静かな美しさを求める自分に合う合わないはあるかもしれない。そして体力の無さと運動神経の鈍さ(実はかなり。いまだに跳び箱3段飛べない体育教師)。
芸術の中にダンスがあるようにと私は思っているけれど、現行の学校教育をすぐに変えることはできなくて、少しずつ。だから今、できることから始めていく。体育に関わる人が作ることに柔軟になったら体を使って作るという意味でダンスも運動会作りも近いかもしれない。
ンマツーポスさんの例もあるしね。


たまたま昨日木野ブレーン(何人かいる)から郎女ダッシュを上回る事例報告を受けとる(論文)。いつもだとそのまま報告したくてダッシュしちゃうけれどなんとなく予感がしてちょっと冷静に受け止めて、今回はおとなしく仕事をこなす。ある意味大人になったということかもしれないです。
とりあえずその論文によると死者の書再読関連でおとづれていた四天王寺、思っていた以上におとづれるべくしておとづれた場所だったようで、梓巫女の拠点だったり、しんとく丸が踊っていたり、聖俗あるいは貴賎入り乱れる空間であったようで、リサーチ不足だったなあと反省しました。つまり日想観の聖地は生きながら死を思う場所であり、その境目であると同時に全ての価値基準が転倒するそのような特殊空間でもあった。そういう時空の歪みのような場所は芸能が盛んに開催されていたりします。
生と死の狭間に芸能は起きるんです。
宗教も一緒。
特に中世、そして古代はそれがストレートに出ている。逆にいうとその”当たり前”だったことに気がつけ無くなっていくのが近代以降。

芸能者は祈る人。
それと同時に時間あるいは空間を歪ませる人。だから同じところに居続けることができなくて転々としていくことが多い。でもどこに居ても祈るということ自体は同じだから。死者の書再読が物語るように、きっとなるようにしかならないんです。(と言いつつ結構葛藤中。今日一日動揺が続く。巫女としてはまだまだ修行が足りません)





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