2019年7月13日土曜日

グローバル時代の国家と社会2019


昨年は「建国体操を踊ってみた」の公開リハーサルだったものの、今年の授業は再び講義に戻してみました。
内容としては各先生から表現の自由についてと言われていたこともあり、昨年の建国体操を踏まえつつ、少し広げた感じになります。

そもそも鳥取夏至祭のようにお外で自由に踊るイベントを開催しているダンスの先生
→鳥取ではそれが可能だが、年々取り締まりや規制が厳しくなってきている現状。首都圏であればヘブンアーティスト制度のように選ばれた人のみが決まっている場所、時間で行うパフォーマンスとなっている。いつから道路や公園で踊ってはいけなくなったのだろう。
(ちなみにこのように思うきっかけは横浜ダンスコレクション期間中に行なっていたおそとダンスができなくなったことです。何をするかわからないものは認められない、参加者もダンコレ関係者に限定する、といわれた時に、そうかーと思って受け入れてしまったけれども、そこで踏みとどまる必要があったのではないかと思うのでした。)

建国体操を踊ってみたという作品の紹介とその背景
1940年ごろの体操の大流行と現在のストリートダンス、バブリーダンス、ヨサコイソーランなどの集団制のあるダンスの流行は似ている。
オリンピック会場となっていた明治神宮外苑の歴史を追ってみると、オリンピックがここで開催されなければいけない理由が見えてくる。
建国記念の日はもともと紀元節。当然戦後なくなったが嘆願により復活している。明治天皇の誕生日(天長節)は文化の日。そして日本国憲法の公布日。明治150年の一斉キャンペーンやテレビドラマでの取り上げなど、なぜここまで明治推しなのだろう?ということ。

表現の自由とは言論の自由や知る権利にも関係する、重要な権利である。アートの世界ではわいせつ問題や政治問題の取り扱いで話題になる。(例表現の不自由展、会田誠、ろくでなし子など)
しかし実は結構みなさんにとっても身近なところにも起こりうる
慰安婦問題における報道の制限、政治的圧力の存在。
(NHKの番組改編問題、朝日新聞によるスクープ、一方で朝日新聞の取り下げ、ジャパンタイムズにおける慰安婦問題の英語表記の変更、安世鴻氏の展示取りやめ事件など)
同様に教科書の変遷。2012年慰安婦の表記が消え、現在も学び舎の1教科書のみが扱っている。つまり現在の教科書を使用している現役学生は慰安婦という言葉をそもそも知らない。(実際に木野ゼミ生は意味がわからなくて調べたそう)なぜ消えたかは検定制度で不許可になることを恐れてと言えるだろう。

歴史は常に変わっていく、
東日本大震災前後における放射能副読本の変化はどうだろうか。正しいと思っていたことがそうではなくなることも起こりうる。
ネットとテレビ、書物それぞれのスタンスにより情報がかなり異なるという現状、では私たちは誰を、何を信じたらいいのだろうか。

もう一つ身近な例として日の丸君が代問題に言及した。
安倍首相の発言を受けて、下村文科相の国立大学学長会議での依頼を受けて、国歌斉唱が始まった鳥取大学(2016年より)。大学の自治という観点からは疑問が残るし、留学生、信仰などへの配慮がないのではないか、トップダウン式に導入されることはどうなのかと地域学部教員が疑問を持ち、署名運動を始めたことがきっかけでこの授業は始まった。それまでは学歌を歌っていたのだという。

東京都の小中高での国旗、国歌斉唱問題についての裁判も含め、このような時に歌わないという選択もまた表現の自由であると説明をした。
何らかの表現活動を表現の自由と捉えてしまいがちだが、自分の意思に反することをしないということも立派な権利である。しかしそのような背景、権利を知らなければ、幼少期から当たり前のように行っている斉唱に疑問も持たないだろう。持たないように教師は歌わなければいけない、のだろうか。

大野一雄が戦時中、敵を見つけしかし逃げろ!と逃したように、自身の考えを保つこと、自分の信条を貫くこと、それは思想・良心の自由とも繋がっており、この日本国憲法の核になるところでもある。
個人の権利を重視する。そのためにあるのが国。国の暴走をせき止め縛るために憲法は存在している。


あまり知られていないが大日本帝国憲法も実は表現の自由条項を有していた。第29条。
日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス


法律の範囲内においてというここがポイントで、これを踏まえて自由民主党の改正案を見てみよう。

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。

1.3はほぼ日本国憲法と変わらないが、2が重要である。
つまりここを見れば大日本帝国憲法と自由民主党の案の類似に気がつくだろう。
公益とは、公の秩序とは何を指すのか。
これが現在の政権の方針を指すのであれば、デモ行進や社会運動は全て禁止となっていくのではないだろうか。辺野古の反対運動と警察のぶつかり合いを思い出す。
第9条の自衛隊の明記の方に皆の意識が向かっているけれども、実はこの変化はとても大きくて、国のために人があるという考え方に基づいている。個人ではなく人。
明治は、そして昭和初期はそれほど素晴らしい時代だったのか、私はそうは思わない。

建国体操シリーズは明治期からの女子体育の歴史をたどってきたこともあり、秋田テレビで井口あくりの番組で紹介されたりもした。女子の社会進出、活躍という点で注目されるのもよくわかる。しかし一方で、それはあくまで一部のエリートの話でしかない。
研究として協力できることはするけれども、基本方針として、私はダンスはより自由であるべきと感じているし、今の時代にあう生き方の形を作らなければいけないだろう。
芸術は本来公の秩序のためにあるものではなかった。
個人のせざるを得ない想いから生まれるもの。
それを許容できることがどれだけ豊かなことか。
私はこのわらべ館のワークショップや鳥取夏至祭という小さな試みが最後の桃源郷みたいなことにならないように続けていきたいと思っている。

0 件のコメント:

コメントを投稿