2019年7月28日日曜日

芸術で争うということ。

Facebook上に挙げた記事の転載です。追記しています。

東京芸術祭の記者会見記事を見た。
https://natalie.mu/stage/news/341407

今年のメインイベントはワールドコンペティションになっている。いや、もちろん公演もある。そしてマハーバーラタはじめとして面白い作品が並ぶことだろう。でも、それでも私はやっぱり気にかかってしまう。
私は宮城さんも横山さんも大好きだし、東京芸術祭関係者のつながりもあるけれど、それでもやはりコンペにしなきゃいけなかったのかな?ということはおもう。
芸術文化に順位なんてつけれない。
ましてやジャンル横断で。
彼らのジタバタ(宮城さんコメント)すごいわかる。だってまずいから。ガチで。でもその理由が海外で日本人の若手を見かけない、といってはだめだと思う。
お金がないから?
機会がないから?
ちがうのでは?
新しいものは枠組みを打ち破る力をもつ。
今の若者はそのような生き方を選ばない。
枠組みを作ってそれに乗る人を作るのは教育かもしれないが、逆に自分たちのレベルに抑えつけかねない。
今回公募ではなく、セレクトしたことで、質の保証ができる一方、偏りが生まれたり、各選出者がそのエリアで権力をもつことになる。
Aero waveはまだ集団で短編に編集したビデオとはいえ全員でシェアし、話し合うプロセスと各団体がフェスティバルでひっぱるなどできる可能性を有していた。
また昨今それこそ昨年の三文オペラや新国など全キャストオーディションなど門戸をひらくこころみが始まりつつあるのに。
これは何を目指したいのだろう。

私にはわからない。
私は1ダンサーだからだろうか。気が付けないだけだろうか。
世の中の大きな流れがある。
私もそれはわかる。それを知りつつ、それでも私は私のあり方を提示していくしかないのではないかと思う。選ばれる選ばれないに関わらず。それは私が個人活動で動いているから可能なのだというのもわかる。集団を抱えていては守るために冒険はできない。
個人でいることの意味、それぞれが言葉を持つ意味、そのこと自体が今問われることではないか。
どんな形であれ選挙に行くことや、自分の意見を話すこと。それと一緒。

私の腕には何もない。守るべきものは何もない。その選択肢を選んだ時に、私は現代の巫女になるべくこの世の中を学びそして伝えることができるようになったらいいなと思うようになった。
それ以降見た世界はとにかく真暗闇で希望も何もなかった。残念だけれどそれが現実。それでももしかしたら変わるかもしれないから選挙に行くといいよとか学生に話す。またこれまでの歴史の経緯を話す。
でもそういう次元ではない石炭袋を見て私は動いている。
私がかつて受けたように大丈夫だからとにかく生きろと私にはいえない。それくらいこの年齢の私でもできるだけ早く死ねる方法を考えて生きるようになって5年近い。
一緒に生き、走りながら。でもそれ以上私は何もできない。

ごめんなさい。
この世にいなければよかったと正直に思う。
死なないで済んだ人がたくさんいる。

銀河鉄道を作りながら、それはずっと思っている。

芸術は本来それぞれの人の違いを認め合うものだ。それにいい悪いの価値基準を加えることはできない。1ダンサー1振付家に過ぎないが、それぞれの人の人生に順位などつけることはできない。真摯な訴えはすべての人の心を打つだろう。

私はうまいダンサーではないけれど、それでも必死で何かを伝えようとする人でありたいし、そういう時にしか踊らないだろう。私はエモーションを信じている。しかし争うものではない。
争うようになるとスポーツと変わらない。実際多くのダンスがコンペで争われる現状だ。でもそういうことを言っているわけではないでしょう?

すごく残念。
そして私はこの世にいる意味が見えなくなるくらい、悲しいと思った。これまでは一体何だったんだろう。



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