あいちトリエンナーレで表現の不自由展が話題となる。
https://censorship.social/statement/
作品内容を見てもこのように問題になることは予想ができたが、それでも問題を投げかけることを選んだ津田氏のセレクトに私は敬意を払いたい。しかしながら以下のステートメントを見ると厳しい状況にあることがわかる。
https://aichitriennale.jp/news/2019/004011.html?fbclid=IwAR0UGC-KKrTSrjMfd2hSbHF8BMMUI3JWzke-s22nsvISst7YoA8AcoxExd0
しかしここで展示の内容を変えるということが起きた時に、この国の表現の自由は終わってしまうだろう。
過去、戦時においても笑いやユーモアに交えながら社会風刺を行なっていた時代がある。それすらも認められなくなっていく時代が近づきつつあるそんな予感がする。
授業で扱った事例の実際の展示もある。
(http://saikino.blogspot.com/2019/07/2019.html)
本文内にあるように検閲問題は実は日本にも起こりうることで、例えばスポンサーや助成金のカットなどという形で実質打ち切りのような形にもなり得る。そうしてそれを恐れて、当たり障りのないよう、「忖度」するようになっていったのが教科書制度である。
本来芸術は日々の生活の見方を変えるような行為である。物の見方は一つではない。声の大きい人の言うことばかりが正しいわけではなく、どんなに小さい声でも拾い上げ、見ていくことで、この世の中は豊かになっていく。
様々な表現を受け止めることができるそう言う社会であってほしい。
自分と異なる考えはすべて認めない、それで良いのだろうか。
昨日グローバル時代の国家と社会の最後の授業でグループごとに分かれてのディスカッションがあった。表現の自由に引っかかった学生も当然何人かいて、あまりにも自分が何も知らない、知らされていないと言うことに気がついたと驚いていた。
そして全てのグループ(障がい者問題、多文化共生など)で教育とはというところに行き着いた。自分が受けてきた教育とはなんだったのか、やっと初めの一歩に乗っかることができた。
私が行うレクチャーパフォーマンスはアーカイブを用いて今の世の中に再びあらわしだす作業であった。いつの間にか忘れ去られてしまう、なかったことになってしまうものを再び見出す。そして誤読や遅延はあったとしても、今に問いかけるものという点で、今回の展示に似ている。
天皇制の批判がとか慰安婦問題がということではない。
こんなことがあった、こうだった、今はどうだろうか。
答えなどないが、見た人と一緒に考える。そのための疑問提示。
世の中には様々な表現がある。強ければいいというものではない。
自分の言葉で自分の声で作る自由が今はまだある。
今は、まだあると私は信じている。
追記(20190803)
少女像の撤去が決まった。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190803/k10012020451000.html?utm_int=news-culture_contents_list-items_001
残念に思う。
彼女のタイトルは《平和の少女像》(正式名称「平和の碑」。「慰安婦像」ではない)。
HPにある説明だがこれも消えてしまうのだろうか。
2012年、東京都美術館でのJAALA国際交流展でミニチュアが展示されたが、同館運営要綱に抵触するとして作家が知らないまま4日目に撤去された。
と書かれている。
このことにより、日本という国における表現の不自由さは一層強調されることになった。私はしがない踊子に過ぎないがこのことに危機感を感じている。
かつてダンスハ 体育ナリのプログラムでそれでも球は投げてみるべきものと書いた。それこそが表現だから。
西田留美可さんはReal Tokyoのレビューでこのように書く。
ダンスは戦時中に禁止されるが、体操は重用されていく。管理しやすい体操に反して、ダンスの自由な精神や個人主義的な方向性が嫌われるのだろう。現代は、戦時下とはまた違う形でかつてないほどの管理社会になってきている。ダンスは歴史的な理由で体育の範疇に入れられてきたが、それは管理し制御しやすくする利点もあったかもしれない。ダンスが時代のカナリヤ的な存在であってはならないだろう。
時代のカナリヤとしてはものすごく大きな変化の時だと感じている。
追記の追記(20190804)
単純に少女像を撤去ではなく(これも十分に大きな問題なのだが)、展示自体がなくなったということがかなり痛い。ちゃんとした議論のないまま全部ひとまとめにして判断してしまうところがかなりまずい。
今回の出展のうち3つの作品をたまたま別所で見ている。そしてそれを見て言えることは、必ずしも偏った作品ではないと言うことだ。私は今回の全ての作品を見ていないけれども、受け取り方でかなり変わってしまうと言う芸術作品において、どこまでが配慮し、誰の権限で制限されるのかわからないまま一括りに禁止、中止をしてしまうことで表現活動を萎縮させ結果的に検閲と同じ効果を生み出してしまう。
直接言っていないからと言うならば、そのような忖度と、配慮の結果全体主義が生まれ、アイヒマンのような存在が生まれた。日本でも731はなぜ起きてしまったのかと話題になる。なぜやめることができなかったのか。なぜそのように追い込まれてしまうのか。いや、その人たちは追い込まれてなどいない。それが当たり前のこととして受け入れてしまっていたと言うことだ。
ガソリンで火をつけると言うような声に対し、テロ等準備罪はこういう脅迫をしてくる人を取り締まるためにあるのではないのかと友人は語気を強める。いや、でもだからって、これが発動されるようになったらもっとやばいから落ち着こうと話す。
ここで戦うのではなく、今私が作家として何か言うことがあるとすれば、そのような状況をも受け入れていけるかどうか。
この日本の危うさは、うっすら感じていて、だからこのシリーズ始めたのですが、再演を重ねるたびに怪しさが増していく。最後のシーンもどんどん追い込まれていく。今回はどのように終われるのだろうか、いつも上演の最後の瞬間まで迷っている。
原作版「新聞記者」のラストはこの言葉が引用される。
あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。(マハトマ・ガンジー)
芸能者はもともと弱い立場の人間である。でもだからこそ今いうべきことを自分のために言うように、言えるようにと思う。