2019年8月26日月曜日

久々にバレエる。

この5年近く、バレエから離れていた。
ラッセルのところを離れ、牧野先生が亡くなり、年齢も年齢なので、おそらく今後バレエベースになる何かを踊ることはないだろうと予測し、それであれば日本人としての身体をもう少し考えようと思い身体を変えることにした。

だいぶん重心位置が下がってきた。足首の形が変わってきた。特にこの半年くらい、死者の書関連で色々模索した結果でもある。ただ、俗にいうダンスを踊る時の身体からは離れ、下手になってると思って反省する。

上手い下手はあまり考えていないのだけれども、ショー的に見栄え良く魅せる必要がある時とかにこの人プロだと思わせるというか、ダンサーだと思わせる必要がある時に差が出るのが普段の身体訓練だと思う最近。バレエやコンテは明らかに普通ではない身体なので、パッとそういう人とわかっていただける。
一応学校の先生をしていて、全くダンスを知らない人にある程度見せながら説明してあげなきゃいけない都合上、やはりそういう部分を残しとかなきゃいけないんじゃないかと思い、バーレッスンを久々に再開してみる(一応誕生日を機会にしてみた)。
こういう時にさらさらとバーの中身を作れる程度には学んでいたことに感謝する。

どこがどうなっていて、というのがすごくわかる。身体がいかに変化したのかとても面白い。
それは面白いけれど、今するべきはやっぱりこっちではないんだなというのが1週間ほどしての感想。


ちょうどバスクからマリアが鳥取に来ていたので(昨年鳥取に来ていた子が再度アーティストレジデンスで滞在)話をしに大山まで会いにいく。定期的にやっていた仕事(ダンサー)がなくなって、定期的に体を動かすことがなくなって結構鬱になっていたりしたという。彼女と話をしていてもちゃんと体の声を聞いたり、背骨を広げたり、ゆっくり歩いたり、俗にいうダンスになる前の身体作りのことを指している気がする。
踊り以前の身体作りがいかに大切か。
体育におけるダンスもコミュニティダンスと呼ばれるものも思えば運動としてのダンスで動きを覚えて踊るとか、動きを作ろうとかそういうことを行うが、あるいはコミュニケーションのためのダンスなどの言い方をするが、その前段階が私は好きなんだなあということを久々に思い出した。
ラッセルやジョゼのもとでやっていたフェルデンクライスもそうだが、自分の感覚と身体を結びつけ、それを拡張させていくこと、その気持ちよさ。この知覚系もうちょっとちゃんとやったほうがいいと思う。BMCの勉強会(体育系大学教員の有志による科研費研究)もおそらくその目的で作られているけれど、身体の声を聞ける人は宇宙が内在しているのがわかるから多分そんなに死ななくなると思う。

バレエでも宇宙には繋がれる。でも鏡を見て外から見えた目線を持ってしまうと、身体の中に意識を向けにくくなる。できれば鏡のない状態で、中をみ、動くうちにだんだんと自分の認識が作られていったほうが繋がりやすくはなる。かつての伝統芸能、民俗芸能は鏡のない場所で稽古をしてきた。そこに他者(観客)は関係ない。
宇宙って?って言われるかもしれないし、全ての人にわかる話ではないのかもしれないが、多分そういうことが私なりの踊りであり、「農民芸術概論綱要」なのだと思う。死者の書はそういう意味で結構なミラクル技でそれを見出したような気がする。でも再演はできないけれど。


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