にんげん研究会の発表会で学生さんの発表を聞く。
鳥取大、立教大、ICUの学生が鳥取(松崎)で半合宿をしながらにんげんについて考える。東京の学生さんにとっては1時間に2本しか汽車がない!ことから驚きという。
自分の見ている世界の感覚が人と違うので、それをそのままアニメーションにしようとした学生さんと話をし、そこから考えたことをまとめる。
私たちは同じものを見ていても同じように認識しているとは限らない。
例えば同じ赤いリンゴを見てもどこに着目するか、またその時にいる場所、その時の体調などで変わってしまう。絵に描いてみても明らかに違う。
その差異を少しでも減らそうとして人は言語化し、共有できるようにしようと試みてきた。これはリンゴ、赤い、と言い表し、食べられる、かたいと説明を通じて共有してきた。
しかしそれでも差異はそこに残っているわけで、その人のものの見方をあきらかに顕し出すのが美術作品だと思う。
例えば私はおそらく見えないはずのものが見えてしまうときがある。
身体をうまく引き伸ばしていくとその手が先に導かれ動き始めていく。そのとき周りに気配のような何かをまとい、その何かが現出される。
その何かが現れ出やすくしていくことが振付であり、ある種の儀式に似ている。でもそれは絶対ではないし、同じように繰り返してできることでもない。そこで枠組みを作りどれだけ自由度を残すか、あるいは自分を追い込んでいくのか、みたいなことを試みながら、身体の声を聞く時間を作る。それが稽古。
なので、私がともに踊っている何ものかがお客さんに見えるかどうかはわからない。
ただそれを繰り返していく(つまりそれがクリエーション)ことである種の当事者研究と等しく、せざるを得ないことではある。
それは私がみているものを共有してもらうためにしているわけではなく、このようなあり方があっていいと言えることが大事なのではないかとおもうため、続けている。そしてそういう繰り返しによって新しい見方が生まれていく。
大野一雄レクチャーでもこのことは触れていて、能を引き合いに出すまでもなく、舞踊とはもともとそういうもので、普通の人に見えていない世界を見えるようにするようなものだった。
ただ今回学生さんと話をしながらふと思い出したのは、みている人の側の見方もまた人により異なるということである。なので1現象がピュタゴラスの箱のようにどんどん広がって新たな世界が発生してしまう。
ただ、その感じ方の違いをわかっていて受け入れることができればそれは面白い効果を生み出す。それぞれの人が言語化し、その差異を知っていくことで無限に広がりを持つからだ。それがレビューや批評の力。
最近は皆がわかる、あるいは同じ見方ができるような表現が喜ばれる傾向にあると私は感じている。
インパクトを求め、より強い表現へと進行していく。
またある程度わかるものじゃないと集客できないし、というようなこともよく言われる。それはすごくわかる。でも今のこの世の中に必要なことはそういうことではないんじゃないか。普通の人が普通に自分の見方を表すような環境、また全ての人がその差異を認識するような機会なのではないか。
わからないことはむしろいいことかもしれない。ただわからないだけではなく、ある種の思い入れ、そして必然がなければいけないのだけれど。
若い時代、時間の余裕があるときに、自分ってなんだったっけと考えるのはおそらく大切なことなんじゃないかと思い学生さんを励ましながら、そういうことに気がつけないまま卒業してしまう子も多いんじゃないかと感じたのでした。
鳥取大、立教大、ICUの学生が鳥取(松崎)で半合宿をしながらにんげんについて考える。東京の学生さんにとっては1時間に2本しか汽車がない!ことから驚きという。
自分の見ている世界の感覚が人と違うので、それをそのままアニメーションにしようとした学生さんと話をし、そこから考えたことをまとめる。
私たちは同じものを見ていても同じように認識しているとは限らない。
例えば同じ赤いリンゴを見てもどこに着目するか、またその時にいる場所、その時の体調などで変わってしまう。絵に描いてみても明らかに違う。
その差異を少しでも減らそうとして人は言語化し、共有できるようにしようと試みてきた。これはリンゴ、赤い、と言い表し、食べられる、かたいと説明を通じて共有してきた。
しかしそれでも差異はそこに残っているわけで、その人のものの見方をあきらかに顕し出すのが美術作品だと思う。
例えば私はおそらく見えないはずのものが見えてしまうときがある。
身体をうまく引き伸ばしていくとその手が先に導かれ動き始めていく。そのとき周りに気配のような何かをまとい、その何かが現出される。
その何かが現れ出やすくしていくことが振付であり、ある種の儀式に似ている。でもそれは絶対ではないし、同じように繰り返してできることでもない。そこで枠組みを作りどれだけ自由度を残すか、あるいは自分を追い込んでいくのか、みたいなことを試みながら、身体の声を聞く時間を作る。それが稽古。
なので、私がともに踊っている何ものかがお客さんに見えるかどうかはわからない。
ただそれを繰り返していく(つまりそれがクリエーション)ことである種の当事者研究と等しく、せざるを得ないことではある。
それは私がみているものを共有してもらうためにしているわけではなく、このようなあり方があっていいと言えることが大事なのではないかとおもうため、続けている。そしてそういう繰り返しによって新しい見方が生まれていく。
大野一雄レクチャーでもこのことは触れていて、能を引き合いに出すまでもなく、舞踊とはもともとそういうもので、普通の人に見えていない世界を見えるようにするようなものだった。
ただ今回学生さんと話をしながらふと思い出したのは、みている人の側の見方もまた人により異なるということである。なので1現象がピュタゴラスの箱のようにどんどん広がって新たな世界が発生してしまう。
ただ、その感じ方の違いをわかっていて受け入れることができればそれは面白い効果を生み出す。それぞれの人が言語化し、その差異を知っていくことで無限に広がりを持つからだ。それがレビューや批評の力。
最近は皆がわかる、あるいは同じ見方ができるような表現が喜ばれる傾向にあると私は感じている。
インパクトを求め、より強い表現へと進行していく。
またある程度わかるものじゃないと集客できないし、というようなこともよく言われる。それはすごくわかる。でも今のこの世の中に必要なことはそういうことではないんじゃないか。普通の人が普通に自分の見方を表すような環境、また全ての人がその差異を認識するような機会なのではないか。
わからないことはむしろいいことかもしれない。ただわからないだけではなく、ある種の思い入れ、そして必然がなければいけないのだけれど。
若い時代、時間の余裕があるときに、自分ってなんだったっけと考えるのはおそらく大切なことなんじゃないかと思い学生さんを励ましながら、そういうことに気がつけないまま卒業してしまう子も多いんじゃないかと感じたのでした。
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