2019年8月16日金曜日

盆踊りと戦争

盆踊り
盆踊りは本来先祖の霊を迎え入れ、ともに過ごし、送ると言う儀式であり、円になって(道路の幅の都合で円ではないこともあるが、その方が通り過ぎながら相手とコミュニケーションを取れると言う面白さがあるとも言う)円の向こう側にいる霊と対面する。
そのため顔を隠したり(風の盆や花笠などの傘をかぶるものや西馬音内のように頭巾をかぶるものなど)その人をその人として判断しない領域に行く。
つまり個人の個性を出すようなものではない。
祈りと鎮魂がダンスの元々の原型にあると思うが、祖先を思う気持ちだけが現れでてくる。

郡上のように圧倒的熱量で押してくるようなお祭りもある。がこちらも脱個性と言うか個人は関係がない。エネルギーを共有していくグルーブ感のようなものだけが問われている。こちらは祖先のこととかおそらく構っていないし、今を燃焼するためのお祭り。ある種の生贄。
神様のような大きな存在にとっては個性といった細かいものはどうでもいいのだ。

ダンスの源流のようなものを探っていくときに、お祈り路線とカオス路線があると考え、その両方を見ているのだけれど、本来全ての人が祈る能力も踊る能力も有していたはずで、それが噴き出してくるのだろうと考える。
この無個性化および集団化の感じは戦争に似ている。
そう思っていたら今月の100分の名著(NHK)はカイヨワの戦争論だと言う。カイヨワは私が遊びの4分類を紹介するときに用いているモデル図の著者(「遊びと人間」)でホイジンガさん同様(細かく言うと少しずつ違いがある)すべては遊びから派生するという彼があえて戦争について書いている。
日本だけではなくドイツでも、そしておそらく他の国でも言えることだと思うが戦争は無くならないのはなぜか。

スポーツ社会学の恩師菊幸一先生は「人は常に暴力性を有している」と言う。それゆえにルールを厳格に定め、それを発散するべくスポーツは進化してきた。手を使わないサッカー、変な方向に飛んで行ってしまうラグビーと言うようにより難易度を上げその上で競い合う。そのルールを定めると言うことが文明(文化)であり、それゆえにその違反は厳しく罰せられる。スポーツ以外の社会規範においても厳密に扱われるのは、スポーツがある種シンボライズされており、薬物使用など他犯罪も行わないクリーンなイメージを打ち出さなければいけないからだと言う。
オリンピックは代替戦争だと言うけれどもある種ナショナリズムを煽ってしまうが、人の持つエネルギーをスポーツという形で昇華しているシステムだとも言える。
1940年のオリンピックは幻と消え、そのときに余ったエネルギー量はそのまま戦争へとなだれ込んでしまった。
無個性化、集団化した人々は足を止めることができなかった。
私たちはそのことを知っている。少なくとも私のレクチャーパフォーマンスを見てしまった人は知っている。

人はよくも悪くも動物である。そのことを忘れてはいけないし、人間がすべて統制できると思ったら間違いだと思う。ダンスは古くから破壊の神とともにあり、社会秩序に反しながら、存在してきた。そしてその衝動は本能に近い部分である。あの世と繋がりながら、もしかしたらこの世の中が壊れていくのは止めることができないんじゃないかと思う。もう何年も前から真っ暗闇しか見えていない。破壊の後に何が残るのだろうか。盆踊りはスポーツに似てある種のガス抜きとして使われてきたところがあると思う。つかの間の楽しみだったとして戦後すぐですら行ったという(新野の方のお話し)。
ある意味ダンスの持つ力を表していると思う。
第4回目のレクチャーパフォーマンスでは「破壊してもそれでも生きていかねばならないのだろうか」という言葉が出てくる。「それでも生きていかねばならないのだとしたらデタラメなこの国で、さらにデタラメに生きていくしかないでしょう」とも話す。

盆踊りを冷静に見ながら、個人でできることについて考えている。それがおそらくいま私にできることであり、私が私を失わないために、たとえこの世の中の流れに反したとしても文章を書き、作品を作ることが、表現の自由を証明していくことにつながるだろうと思うので。

終戦記念日、そんなことを思いました。
(で、台風にあって帰れなくなり、家では見ないテレビをつけたら最後の早慶戦を題材にしたドラマをやっていて、妙にタイムリーな話題になっていて驚く)

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