2020年5月27日水曜日

コロナウィルスにかんして20200527

緊急事態宣言が解除され、(問題の展示の会期も終了)ほっと一息。
でも鳥取の場合はこれまでもあまり件数がなかった分、むしろここから後の方が危険度は増すと考えられる。なので油断は禁物です。

夏至祭に向けての打ち合わせなども進められていて、まだ出ていないけれど、できそうなことを少しずつ出していく。小さいけれど、できることをする。

その一方で、おそらく、ダンスの人にこれないと死んじゃう的な危機感みたいなのが薄いのはなんでだろうと考えていた。演劇人や映画、音楽のネットワークが共同声明を出している中、なぜかダンスは含まれていなかったり。zoom演劇などすでに様々なところで起こっている割にダンスの人々の反応は鈍い。(ストレッチクラス配信などオンライン講座は多数)過去の演目を上映みたいなことは起きているけれど。

舞踏の授業の会を作りながら、またハルプリンを見ながら、踊ることと生きることは繋がっているからかと感じたりした。今生きているご飯を食べたりする日常生活がすでに踊ることでもある。踊りの稽古は特別な場所で特別に開催することばかりではない。道を歩いている時や風を見ることや、呼吸を深くすることやそれもまた稽古である。本を読んだり、考えたりもすべてが踊りになる中で、それ以上に何かをするという見られていないと見せないとみたいな感覚は薄いのかもしれないとふと思う。
元々経済活動的には大きくなく、細々零細企業的に行なっている人が多いダンス業界は、支援や助成ともあまり関わらず、ただ淡々と続けていく人たちなのかもという気がしてきた。舞踏の話をするときに毎回大野家を思い出すのだけれど、うちのお父さんが、おじいちゃんがという家族の距離感ですべてが回っていて、その感触を学生さんたちに説明してあげるのは難しい。それはうちの牧野先生もそうだった。(家族はいないけれど、ご飯を一緒に食べながらお話しする記憶がやはり強い。つまり家族がいなかった分私たち(弟子が家族でもあったし、私は特に年が他のメンバーともかなり離れて若かったのと、弟子の子つまり孫のようのもの(実際に松山夫妻と石村弘子さんの教え子だった小学校時代がある)だったから気にしてくれていたのかもしれない)
大きな舞台もカンパニーもあるけれど、なんとなくそういうつながりがダンスなのかもと思い出す。


コロナウィルスのおかげか空気が澄んでいるし、体は動かせてるし、実は結構調子はいいんですという友人ダンサーの言葉が妙に納得。つまり静かに修行している状態をキープはできていたら(収入が途絶える怖さはあるけれど)それでもう良くなってしまうという。
地球規模的にみたらコロナはある意味必要悪なのではないかという発想はやはりダンス人ならではのものかもと思う。そのまま地球のエネルギーと繋がってしまうというところが。人間もまた自然の一部であり、私たちはやっぱりいろんな意味で地球を食べて暮らしていたようなところがあり、その速度を少し緩めたほうがいいという警告なような気がしてしまうのもかなり世間の動きとは逆行している。でも身体に正直に生きる身としてはそう思う。

昔学生時代に作るはずだった作品に白雪姫の変形で青いリンゴをみんなでかじってしまう話があった。(なお、All Japanに最終的に作った作品は「コウモリは叫ぶ」という作品で、鳥と獣の狭間で悩むコウモリさんを女子大生が演じていた)地球という青いリンゴを食べ尽くしてしまうそんなイメージ。もう20年以上昔。でも今もそんなに変わっていないということを思い出した。

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