2020年5月2日土曜日

ダンスマカブル

死の舞踏という言葉がある。
人はなぜ踊るのかの話をした時にキリスト教は肉や性欲を避けるべく舞踊を禁止した歴史はあるがそれでもなくならなかったという話をしたり、アフリカでは土着の音楽と結びついてゴスペルのように発展し、踊りは常にあるのだという話をした。
そのついでに触れなきゃなと思ったのが「死の舞踏」。1400年代にしきりに描かれた骸骨と共に踊っているあの絵である。なおダンスマカーブル(フランス語からだと思うんですけれど)などとも呼ばれる。(今日の読書は「死の舞踏への旅」小池寿子2010とバルトさんの「明るい部屋」の再読と戦争画についての本。)
1300年代100年戦争があり、ペスト(黒死病)が流行し、人口の3割から5割が亡くなったとされるこの時代。いつ誰が死んでもおかしくないそんな世の中で、埋葬も満足にできない状況があった。それから100年1400年代半ばになってこれらの絵が描かれるようになったが、それだけ期間が開いたのは本当に深刻な被害だったのだろうとも思われる。
大きな戦争や疫病といったものは、権力者にも平民にも等しく襲いかかる。ある意味、平等を生み出す。死は等しくそこにある。
今私たちが置かれている状況は当時に似ていて、それでも昔のように原因すらわかっていない状態ではないからマシな状況ではある。でも自分たちにできることは結局人に触れないとか手洗いとか何十年と変わっておらず、人は進化したように見えて死が必ず訪れることも、そしておそらく当時以上に地球の状況は悪いということも変わっていない(悪化している)。人文科学と呼ばれる文系の知はこのようにして変わっていない人間の性のようなものを見出していくことにあり、こういう時にこそ役立てなければならないとも思う。ある意味今の時代にぴったりの題材かもしれない。

さて、彼らはなぜ踊っているのか。
(演奏している骸骨さんもいるが)
もう一回考えてみよう。踊りに見えない絵もある。でもなぜそれは舞踏(あるいは舞踊)と言われるのか。また、それに付随して度々起こる集団ヒステリーとしての舞踊事件。それも合わせて。



学生さん(大学院)で太宰治とギリシャ悲劇の関係を研究したいという学生が出てきたのでギリシャ悲劇の仕組みをお話しした上でアンティゴネを勧めてみる。人は死ねば皆同じという点では近いかもしれない。劇場の発生や演劇と舞踊の根本的な違いなどを説明したが、なんで盆踊りになっちゃったのかは解説が必要だろうし、コロスという役割がなぜ存在するかなど都市国家としての劇場の役割を理解しないと分からないだろうなあとつくづく思う。大丈夫かなあ。
もう一人はアニメの研究をしたいという。アバター等々について考えることをお話しする。こちらはVRも含めた自分ではない身体性へと現代人が向かう今について考えることになる。運動会の人たちとの対話で見えてきて気になっていることがそのまま話題になる。私は身体から物を考えるので、色々教えてもらうことにする。

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