8月23日、榎本了壱さんのゼミに招かれて、江古田日芸の新校舎にて踊る。
(それにしてもここまで大規模な工事とは知らなかったので、びっくり。日芸、勝負にでましたねという感じでした。私がいったのは演劇学科の一稽古場ですが、かなり広かったです。)
今回のテーマは
「踊る踊るというけれども、ダンサーの身体は本当に自由なのか」ということで、
今回は特に「見えないけれど存在するダンス」及び「拘束により運動を制限することにより新たな振付けの方法を探る」ということに重点を置くことになりました。これはきのにやらせるしかないというご指名(それも二回も)を受けてはるばる静岡から登場することになりました。(なお、リハーサルのお休みの月曜日にあわせて開催していただく等配慮していただきました、ありがとうございます)
実際、ここ何年かでつくっている作品のうちEdgeからIchIまでは発想の流れがつながっています。なのでこの2作品及び箱女をご紹介しました。集中を高める/集める、想像力を膨らまさせるうえで何が一番大切かと考えた結果、私の場合は運動量が極端に減っていくことになってしまったというわけです。ダンスをつくるというのは新しい身体概念をうみだすということだと思い、またそれを観客に向かって投げかけるということだと思うのですが、どうなのでしょう。
グラハムは女性の苦しみを表現するために子宮の収縮(コントラクション)を発見したし、カニングハムはくじ引きの結果に即座に反応できる(バラバラにコントロールすることができる)身体を作り出すカニングハムテクニックを作成した。フォーサイスはラバノーテーションで有名な8面体(9だっけ?)を越えてまっすぐ正面を見つけ出した。
そんなえらそうなことではないのだけれど、でも発想の転換はとても重要で、今ある要素をとびこえちゃう何かをどこに想定するかということだと思うのです。
今回の会では全くふれなかった現在の私の思考について。おそらく私はIchI以降確実に違う路線もイメージしていて、札幌ダンスはそのなかにはいっている。そしておそらく次のかめりあとすぎっこピースも。これがうまくいくかはわからないけれども。
観客は日芸の学生さん他、江古田でダンス(ADF2010)の参加者、加藤みや子さん、木佐貫さん等多数で、感想をゆっくり聞く時間がなかったのが残念。
できれば発表だけでなく、議論が展開できた方が面白かったのですけれど、また後日です。コメントなどお待ちしています。
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