普通の人ができないことをするのか、あたりまえのことをあたりまえにできるようにするのかでは稽古も全く異なってくる。
「すごい」という驚きは大道芸にとってとても大切で、そのために日々研鑽する。間違いがあってはならないし、違うことはできない。日々同じことを繰り返しながらその芸を磨く。
今私がしていることは、きちんと立つことだったり、ゆっくり歩くことだったり、足の裏の感覚を広げることだったりする。この瞬間しっかり止まれるように。その瞬間意識を飛ばせるように。どこから身体をつなぐか、ひらくか、イメージをつくりつつ、外から見た自分を冷静に受け入れつつ稽古を続ける。
しづが和物なこともあり、最近は着物を着て(これも練習中)歩く練習もはじめた。歩くのは前からやっていたけれど、かなり確信犯的に継続している。そもそもできる限りゆっくり歩くというのは宮城さんからのクナウカオーディションの課題であったことも思い出す。歩き練習は今年の静岡から再開。Pieceでのりさんに「基本にかえるんです」といわれたときにああ、歩きだと思い出した。
日々発見していく。
シンプルなものほど学ぶことは多い。
着物版しづもやってみたりする。正直、着物についてはまだまだで、しかし正座、立ち方、振り返りなど和装から学ぶことは多い。
でも普通の人ができないことをしない限り誰も見てくれないし、生きてはいけないんだなあというあたりまえのことを学びました。
毎日しづに専念しているので身体に偏りが出てきたことに気がつきました。
右肩と左肩の下がり方が違う。
身体は日々進化する。
トレーニングとはその進化を一定方向に進めること。
作品作りとはそういう身体作りかもしれない。
でもその偏りは身体を壊す。今日は寒かったこともあり膝が何度かずれたりする。
偏った身体はあたりまえのことをあたりまえにできなくなる。
それを直してみる。
サーカスとは身体の偏向を進化ととらえ、追求していくもの。お客様の中にいる神様のために。ダンスにもそういう人たちもいる。それが普通なのかもしれない。
でも私はあたりまえのことをあたりまえにできるようにまずはなりたい。
「すべての答えは私の中にある、なぜみえているのに実現しようとしないのか、何に遠慮しているのか」とは友人の言葉。
あたりまえのことはあたりまえにできるようになることはない。
決してない。
なぜならその先があるから。
常にその途中であり、経過報告でしかない。
しかもできるようになってもあたりまえのところだから、見た人がわかるのか疑問だと思う。
つくりたい、踊りたい人が数多くいる。
私の感覚はそんななか逆行しているのかもしれない。
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