2019年6月10日月曜日

パンダ

野村さんワークショップウィークの週末。
鳥取少年少女合唱団、音楽メンバーとのワークショップ、鳥取西高合唱部とのワークショップ、翌日も音楽メンバーに追加して市響メンバーが加わってのワークショップと盛りだくさんの日。
たまたま今日野村さんの着ていたTシャツがパンダ柄だった。
やぶさん(死者の書の演奏を担当してくれていた)がタイで購入したものらしいが、パンダがグリコマークでポーズしているのに、お腹にパンダと書いている。どこまでアピールしたいんだろう。。そしてなぜか「生きなさい」というメッセージがついている。

私は芸能者はパンダのようなものだと思っていて、実際、イギリス時代に言葉も通じないままいた時の感じは転がってても可愛いパンダのようでした。自分が可愛いというわけではなく、うまくはないけれど、愛嬌でカバーという意味です。ラッセルは手を広げるだけで違うんだと言い張っても、同僚や奧さんには理解されない。(そういう関係性はなく、でもいろんな意味で誤解されました)

日本に帰ってきてからも単にラッセルなんて知らないだけならともかく、お前は身体が良かっただけだとか、ちょっと寝て引っ張ってあげれたらいいのにというディレクターさんがいたり(完全にセクハラですが、すでに故人なので言ってもいいと思う)、海外公演で皆の前で明らかに上の立場の人に口説かれたりして、私はこの世に生まれてきたことが嫌になりました。
そこで気に入られてお金や尽力をつぎ込まれ、でもうまくかわしてニコニコしながら生きている自分が耐え難く、自立できるすべを模索しました。その度に足が腫れる事件や潰瘍や色々起こり、自分の体を自分で壊していく感じを味わいながら。

誤解されるのは結局あまりにもうまくなかったからいけないんだと思って、色々練習をしたし、それでも運動は苦手な方なので、パンダなりにできることを考えました。発想じゃないかとか、巫女的ひらめきを追求しようとか、あともう一つは自分の体の持っている繊細さを出そうと試みてみました。私が私でなければできないものを持つなら誤解もなくなるのではないか。
もしくは私が私というものをこだわらず、すべてを受け入れてそしてすべてを捨てて生きていくことができればそれはそれで良いのではないか。筒井筒、静など日本の舞を調べる作業を通じて芸能者の存在を考えれば、それが当たり前であり、むしろそういう人の感情を利用して生き延びていくパンダ族として生きる覚悟を持つべきだったのではないかと考えたり。
私はいろんな人に支えられて暮らしてきて、(今でも大切な人たちだけれど、)自分がいることでプロジェクトが起こり、そして壊れていく過程をいくつもみてきました。作品が壊れるだけならともかく、人の生死に関わるとき、精神を病む人が現れたとき、私はそこで「だって仕方ないよね」と言い切れなかった。パンダ族としての覚悟が足りなかったのです。皆で生き延びるにはどうしたらいいだろうかと考えた結果、距離を置き、静かに穏やかに祈るために逃走することになりました。だから転々と。どれだけ拠点を移してきただろう。色々あって流れ着いた鳥取。

パンダが生きなさいと言っている、そして走っている。たまたまのTシャツなのにその時点でかなり色々考えさせられました。

やぶさんは過去に木野祭と描かれてて、しかも鳥のえが書いてあるTシャツをくれたことがあり、どこからそんなネタのようなTシャツ見つけてくるのかわかりませんが、時々センスを超えた何か力を発揮してくれます。夏至祭の服決定だな。

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