2019年6月30日日曜日

スタジオマキノ


今日はスタジオマキノのクロージングへ。私がダンスを始めたのは3歳の頃で、小学校時代の3年くらいと大学2年からお世話になった稽古場。もともとは都立大にあり、(川崎市)高津へ移り。海外に行っていた時代もあり、ずっといたわけではないけれど、ここで稽古をしていた時代がある。先生がなくなって5年半。私が鳥取に来て3年半。
長くハンダイズミさんが中心となって守っていたクラス(スタジオ本体はキッズガーデンという彼女の妹さんの経営する団体が管理)があったものの、撤退することになったという。
多くの関係者が集まり、同窓会のような状況になった。
そもそも私が鳥取にいるということすら知らない人も出てきて、結構説明は面倒臭い。。。

過去の先生の作品を見ながら(それは私が関わる前の彼女が踊っていた頃のものも含まれる)、あるいは自分が踊ってきた彼女の作品を思い出し、懐かしいのと、当時からいろんな疑問と不可解を抱えながらずっといたことを思い出す。その違和感は私が作品を作ることにつながり、全く異なる形で現れるようになっていったけれど、とりあえず放っておいてくれた。
放っておいてくれたというのは例えばEdge(横浜ダンコレ2003)も見ていない。IchIも。でもそれでよかったのだと思っている。

海外に出て、帰ってきて、でも体を動かす場所は必要で稽古にはいき、そんな暮らしをしていて、とにかく動きは体に合わないし、どうしようかと思っていた。
彼女が亡くなり、彼女の作品を踊る必要がなくなった時点でバレエの稽古をやめ、独自に身体づくりを始めることにした。でも逆に言えば、おそらく私でなければできない領域があると思っていたし、身体を作るということが作品を作るということだと私は今も思っていて、彼女のために待っていてあげることができたのだと思う。
江口隆哉の最後の弟子にあたる彼女、そして幼少期に受けていた邦系の身体育成法、それは無意識にでも体に残っているある種の財産だと今は思う。(そしてダンスハ体育ナリ?につながっていきます)

ラッセルワークも、ニヤカムさんワークも今でも私の体に染み付いているけれど、(特にラッセルさんが木野の無意識下で行なっていることを発見し、言語化してくれたプロセスによって、私はかなり意識的にその現象を扱えるようになった)もともとはそうやって作られてきたもの。
古いアルバムから小学生の頃に踊っている自分の作品が出てきた。また大学の頃作ったソロ作品の写真など。(「壺の中の鳥」なんと忘れていたけれど鳥作品あったんです。でも北京ダックからヒントを得た結構暗い作品。)亡くなった時の遺品の整理では大学時代に撮ったプロフィール用写真が出てきて驚いたが、今回は妹の写真も一緒に出てきた。昨日ちょうどあったところだし、送ってあげることにしようと思うのでした。

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