2019年6月5日水曜日

表現の自由について

天安門事件から30年になる。
ちょうど表現の自由について授業を組み立てなきゃという節目だったこともあり、気にかけて見てみる。

大学のメールサーバーがG mailを利用するようにしますと会議で出てきて、中国人留学生への連絡や中国出張があった時にメールを見られないという問題が起こりうるという指摘が出てきた。gmailに限らず情報の操作ある種の検閲が行われているのは事実で、google groupで中国に向け検索サイトとして再参入をしようとして社員から反発が上がるなどの問題が上がっている。

中国だからね、と私たちは言えるのだろうか。
メディアによる情報の偏りが指摘され、ポストトゥルースという言葉がはびこり、政治と現実社会の体感にかなりのズレが生じている今、本当に私たちは知ることができているのだろうか。


鳥取夏至祭では様々な屋外、公共施設を使用するが、それぞれに許可を求め、またお話をしに行く。思想はアヴァンギャルドであっても、大学教員なだけに、一応ちゃんとしている。しかし一方で、もっと街中でいろんなことが起きればいいのに、と思う自分としてはなぜここで一つ一つ使用許可が必要で、場合によってはお金を払わねばならないことに少々疑問を感じる。そして3年目だが年々厳しくなってきているということも感じる。
ヘブンアーティスト制度は大道芸の人たちにチャンスを与えたように見えるが、実は多くのそれを目指す人たちを封鎖することにつながる。そこに住んでいるホームレスの人たちを追い出して立派な公園を作る政策にちょっと似ている。
つまり保護や支援、援助を行うためには線引きが必要になり、そこに排除が生まれる。

すべての人に表現の自由がある。
そして多くの発言する方法が現代では生み出された。SNS,ツイッター、youtube。しかしその表現が正しいかどうかの保証はなく、また何が正しいかという基準すら薄れている。そうした時に線引きをしようとした時に多数の人に支持されているかという基準で選んでいいのだろうか。中国の例は極端なようだけれども、その一つの形であり、一箇所に権力を集中しようとした結果であり、ある意味効率が良く、そして強い国にしていくためのものであった。そして多くの人が政府の与えている情報に従ってそれを支持している。

しることの権利と、表現の自由はおそらく生存権に等しく、人として非常に重要な権利であるにもかかわらず、死にはしないと軽視されているような気がする。

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