2019年6月16日日曜日

コンペティションについて

私自身が横浜ソロデュオコンペティションの出身であり、その受賞によって確実に人生が変わった一人であることをまず述べておきます。
その時に審査委員に得点は高かったんだけれど、フランス人の審査員受けが悪くてという話を聞いて、フランスのダンスを知ろうと在外派遣研修員に応募し、海外へ出ました。それまで海外で活動することなど一切考えたことがない中学高校の保健体育教員がです。
この時であった高谷さんや石川さん、榎本さんなどの押し出しがなければ私は海外でダンサーという仕事に就くことなど一切考えなかったことでしょう。そもそもこのコンペも(当時何もなかったので)即興で踊った3分30秒の映像を送ったからこそ選んでもらい、20分の作品を上演する機会をえ、それまでの制作環境と全然違う環境に触れることになったので、貴重な、そして奇跡のような出会いでもありました。(その後、その関係で玉川大のミュージカルの振り付けに関わったり、韓国など海外も含めた公演機会を得ることができました)
なので、若い人(うちの学生さんも含む)にはとにかく出してみたらと話します。
いい悪いは私たちが決めることではない、とにかく今自分ができること、自分が思う新しい世界を提示してみる、ただそれだけのことです。

しかしながら、そのいい悪いというのはどう決めることができるのだろうとずっと思っていました。私の年は岡本真理子さんが「まばたきくぐり」を出した年で、私は正直すごいと思いました。かなり緻密に作られた美術作家とのコラボレーション作品でした。(ちなみに彼女はその翌年「スプートニクギルー」という作品に昇華させ、フランス大使館賞を受賞し、木野が住んでいたアパートに滞在します)そんな中私(「Edge」生贄をテーマに据え即興のまま枠組みを作り体を放り込む)やステージに姿を現さないマトロンさんの作品が賞を取ってしまった。(ただしマトロン作品は私は今でも結構画期的だと思っています。その後の経緯で今彼はダンス業界に見えないけれど、物の見方が全然違っていた。ちなみに翌年作成した箱女の映像を担当してくれました)ちなみに当時の審査員によれば私の作品は結局ダンスは身体性に戻るしかないのではないかということが評価されたと聞きます。


そうした時に、何が良くて悪いのか決めるのは審査員であるという当たり前のことに気がつきました。彼らが捉える方向性にあっているかあっていないか。今の時代を切り取る若い世代の感性を重鎮たちがみる時にその基準値は何になるのでしょうか。売れる可能性?重鎮たちの年代にも伝わる見せ方?演出の多様性?

コンペは話題になります。そして多くの人が賞を取ったんだったらと思う基準になります。実際私自身も受賞以前と以後とで周囲の触れ方が変わりました。今の仕事に就くことができたのもおそらくこの受賞のおかげでしょう。
そして競い合いを入れることで、作品はさらに磨かれていくことでしょう。
しかしながら、今、この世の中で本当に必要なものはそういうコンペや戦いや争いではないのではないかと私は思います。正しくは、そういうことをせざるを得ない人がいたとしても、私はそうではない価値観を作りたいと思うのです。

スポーツは競い合いの遊びから発生しています。(カイヨワでいうアゴン)
ダンスは眩暈と模倣の遊びから発生しています。(カイヨワでいうイリンクスとミミクリ)
私たちは戦うことではなく、多様性を認め合うところからできないのでしょうか。
プロデューサーの自由を考慮しながら大きな枠組みを作るところでとどめ、順位をつけることを避けたアシュフォードの思想を思い出し、またこの現在の世界の危うさを思うと私はコンペティションは時代遅れではないかと正直思っています。

勝ち負けではない、その先の世界へ飛び立つために、私たちは多様性を受け入れるそんなビジョンを提示すべきではないか。鳥取夏至祭は小さいけれど、そういう意識を持っています。辺縁だからこそ見えることもある。

あやまった道に進まぬよう。
なぜ、これを今あげなければいけないか。わかりますよね?

0 件のコメント:

コメントを投稿