Sound live tokyoをみる
本当は山下残さんのSTで見れなかった作品を見に。
でも個人的にはティムエッチェルスの展示が気になる。
個人の思い出に残っている曲をメッセージとともに紹介してもらうプロジェクト。
それぞれに青春の思い出だったり、父との対話だったり、ペットの猫のことだったりが語られる。
社会を取り上げる上で、私は個人の記憶や思い入れにフォーカスをしそれをつないでいくという手法をとるしかないような気がしていた。AMANOGAWAプロジェクト(https://sites.google.com/site/amanogawaproject/)から巣鴨教会「からたち」への流れはそういうことで、AMANOGAWAを舞台で発表するためには私も自分のことを語らねばならなくなったということだった。(それも個人のことを語りつつ、しかし深くしないで一般的な経験につながるところを選んで述べるという荒技)
たまたま今日の演目にはfryday(工藤冬里)というある金曜日に起きたことをのべていく曲というのがあり、それもまたつぼ。
社会、世界はひとりひとりの全く異なる人間の集合体であるというあたりまえのことに目を向けるということ。
それもまたまなざしだと思う。
帰りがけ上本君(AAPA)とともにAMANOGAWAについて話す。
AMANOGAWAは一般の人が参加しているという点でコミュニティダンスと思われる。しかし大きく違うということ。それはその人の言葉が大切で、それをえるための身体ほぐしでしかなく、最終的にそれぞれの人のための作品であるところ。
楽しく踊るということではない。でも確実に何かがある。そこが私の作品であるところ。
なおかつ「みる」ものとして成立させるということ。
AMANOGAWAは私の作品であり、確実に意思が働いている。
先日アジアのダンスについて語る会をダンストリエンナーレの一環で見てきたときに
「個人的な物事を追求しても社会にはつながらない」という言葉が出てきた。
そしてアジアの各国には社会問題を解決するために踊らねばならない事情があるということも見えてきた。その昔(それこそ今日の山田せつ子さんの話しによれば)日本もそうであったわけで、その時代に生まれた舞踏やパフォーマンスはやはり強烈なものであったわけで。
しかし現代において何ができるかといえば、私は未だ見えてこない。
社会を切り取るために個人を突き詰めていくことでしかないような気がしている。
私の記憶を利用しつつ、他者の記憶と並列していくこと、そして視点を広げさせること、「からたち」で起こしたことはそういうことだった。
私から家族へそして社会へ。
それぞれの人が自分の記憶を大切に思えるように。
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