2020年2月27日木曜日

表現の自粛はいいものなのか。

コロナウィルス の影響で私も主催しているワークショップが開催できなくなり、落ち込んだりする。仕方ないよね、自粛だよね、安倍さん言ってるしね。とみな納得している。
人が集まることは避けた方がいい。たとえ自分たちに免疫力があっても自分たちから他に感染してしまう可能性があるから。でも、今の時代できることは他にもあるはずだ。
急激な休校措置に戸惑う家は多いと思う。共働き状態で学校が休みになったらどうしたらいいんだろう。もっと早い段階でできることをしないで、今更慌てて対処している感は否めない。と同時に戒厳令のシュミレーションのようにも見えてくる。(自分の一声で日本社会を動かせることに気がついて面白い!と思ったというのが正直なところな気がします)
でも芸術は、どんな中でも生まれてくる。今回人を集めるようなパフォーマンスはできないとしても文章で、映像で、様々な形で表現活動はし続けることができるはずだ。私は小さい存在のままできることをしていきたいと思う。

舞台公演を作るのは1年前から決まっていて、それなりのお金が動いている。
ある意味掛売りのような状態で、今回のようなキャンセレーションは対応しきれない。チケットの払い戻し、しかし会場費を払わねばならない、人件費は、、、となってくる。
正直友人ダンサーやワークショップで仕事を得ている人たちが困惑している状況を知っている。公的施設はともかく(なんらかの救済があると信じる)個人で活動している人ほど、それこそ小規模なNPO団体こそどうにもできなくなるだろう。
これを機になんらかの策を立てる必要があるだろうとも思う。

このような大きな規模のものではなくとも活動している人は、できれば、このような状況でもできることを模索していくべきと思っている。私もそうしたいし、今もその方向で動いている。今を表現するのがコンテンポラリーダンスであるのだとすれば、今でなければできない表現が生まれるはずだから。常に困難な時に新しいものが生まれる。表現形態を変えるところから。ウイルスとは何か。それは本当に排除すべきものか。そこからまず考えてみよう。


2020年2月26日水曜日

226

今日は226事件の起きた日です。
私は2018年『ダンスハ體育ナリ?建国体操ヲ踊ッテミタ』を発表し、Dance New Air 2018で上演(其の一体育教師トシテノ大野一雄ヲトオシテと合わせての特別公演)した際この事件を取り上げた。会場のドイツ文化センターのすぐそばに高橋是清翁記念公園があったためでもある。1936年(ちなみにベルリンオリンピックの開催年でもある)に起きたこの事件は軍国主義へと向かっていくターニングポイントでもある。
この第二次世界大戦に向かう時勢と現代が似ているとしてストリートダンスなどに見られる集団志向を指摘した。2019年は8月早稲田どらま館にてその発展形として表現の自由早稲田どらま館バージョンを発表した。あいちトリエンナーレの事件が起こる前から調査をしていて、あまりのタイムリーさに驚いた。その時に731部隊についても取り上げた。
私はダンサーであり、大学教員であり、ある種の巫女として今の時代をどのように捉えるかを考えてきたが、どうすればいいのかはわからない。
ただ、私に言えることはなぜ、人は疑問に感じていることを声にしないのかということだ。共謀罪と揶揄されることを避け一人で勝手に行うこのレクチャーパフォーマンスは政治的な意図はない。ただ、事実を述べるだけで留めている。そこから判断するのはそれぞれの人の判断に委ねられる、でもそれでも、あれ、おかしいな、変だな、いいのかな、そういう疑問がその人自身から起こるだろうと私は信じている。
なぜ、そのような小さな一言が起こらないのか。

それくらい今の時代は危うい。

こういう時に一人一人の人が自分の考えで動く力が必要になってくる。
大切な人を守るために?地球を守るために?どういう形であれ、自分が信じる真実をたどるしかないが、メディアや大きな声に流されていないか、考える必要がある。ここまでくると正しいはない。大切な人のために、何を残せるかの話でしかない。
あの時、上司の命令にとりあえず従ってしまった、あるいはそれが正義だと思い込んでしまった兵士たち。そうならないために、自分の頭で考え、決める力が必要になってくる、私はそう思っています。

ハヴェルの「力なき者たちの力」ではないですが(ちょうどNHK100分で名著で扱っていました。NHKの攻めを感じます)、自分の持つ力を信じることが大事なのではないかと思います。一人でもできることはある。一人だからできることもある。


実は再演予定があったもののコロナ企画で消えてしまいそう。
でも、こういう時代だからできる手段があるのではないかという気もし始めた。
なんとかしたいと思う。


わらべ館ワークショップ開催中止となりました。

コロナウィルス により首都圏ではイベントの中止が相次いでいますが、鳥取ではほとんど変更がない状況。感染者が出ていないせいもあるけれど、汽車なども人口密度も低いからなんとかなるんじゃないのという声を聞く。
昨日まで開催していいよということになっていたのですが、今日、中止が決定しました。
(2月26日16時)
https://warabe.or.jp/event/discontinued229-331/
そうなんです。今週末だけではなくて来月も開催できなくなりました。
これからどのように進行して行くかにもよりますが、舞台公演もことごとく中止になっているので、少々心配しています。残念ですが、仕方ありません。静かにこもって勉強しよう。一人で踊っている分には問題ないんです。だからおそとで一人で踊るるる。



ここしばらくの日本の対応を見ていると放射能への対応を思い出す。見えないものはなかったことになる。測らなければ感染者数は増えない。でもおそらく蔓延していて、重篤患者が出なければ良いことにしてしまおうという素通り作戦。そろそろ帰りなよ、大丈夫だからさと強引に支援を打ち切るのにちょっと似ている。汚染水海に流しちゃおうとか土に埋めちゃおうとかいうのもちょっと似ている。全国に薄めれば(全世界に薄めれば)なんとかなるんじゃない?みたいなことが放射能からウィルスになった感じ。
大丈夫なのか?だいじょうぶじゃないだろう!と皆慌てて家に避難する。感染したら何されるかわからないと思うから検査も受けたがらない、結果知らないうちにうつしてしまうが、みんなでかかれば怖くないということだろうか。
そういう自分は関係ないよという感じもちょっとよくない。
誰もがかかるかもしれない、だから気をつけなきゃ、でもかかってしまったら、せめてこれ以上増やさないための努力をしようと思いたい。
韓国政府の対応の素早さを見るだけに、どうなのだろうかと考える。
国、あるいは政治が生きているかどうかはこういう時に目に見えてくる。


免疫力の低下が一番いけないのではないかという気がしてきた。つまり鬱々暮らしているのもまたよくない。適度に距離を保ちつつ、のびやかにくらしていく。



2020年2月20日木曜日

大学との関係性

きっかけは些細なことだった。身内で勉強会をしようとしたら有料で行なってはいけないとのストップがかかった。
研究発表する場合はお金をとってはいけないのだそうだ。給料もらってるでしょ、って。これまでも夏至祭、銀河鉄道祭と支出はあれど、お金をもらわないボランティア以下の活動を行ってきていて、さらにそれらは私の公務とも認められないし、私のキャリアにもならないし、だとしたら、私はなんの人なのかと考え始めた。
銀河鉄道祭は自身が責任を持つ形になってはいけないと実行委員長を立て、作品の演出などを委託し、裏仕事を全てになっているがそれは表に出すことができない。
チラシにも実行委員の1人として並んでいるだけだ。
夏至祭は自身がはじめたが、学内の規定が変わり、実行委員会を作り、さらに自分はアドバイザーとしてしか存在できない。自分のお金をつぎ込んでやっている事業にも関わらず、大学にすら施設使用料が必要になってくる。
仕事をしなければしないほどいいこの状況、どうなのだろう、、、と思い始めた。
今後私は有料で踊ることができないらしい。
今後私は企画、主催で動いてはいけないらしい。
チケット代金なんて舞台を作るのにかかる経費の一部にしか過ぎないのに。


人から依頼があればいいらしい。
兼業という扱いになり、許されるのだそうだ。

こんな形でしか生きていけないのかと思ったらすごく悲しいし、私は踊子でたまたま教育にもついているだけなのに、教育者だから踊っては(企画しては)ダメとなることが本当に情けない。
芸術系教員は普通に作品制作ができているのに、なぜ私は許されないのか。昨年から度々戦ってきたけれど、大学のためにもなると思って引き受けたりした仕事をことごとく否定されていく日々。教授でないからいけないのか。私が相談したからいけなかったのか。
とりあえず、生き方考え直したいと思う。

大学にいたら助成金とかは取りやすくなることはわかるけれど、助成金に頼らないで生きるすべを求めて修論を書いた身なので、当惑している。そして今行なっていることはアーティストさん達にお金を回す努力をしているだけで私には利益はない。彼らの活躍する場を作っていて、それはいいことなのはわかるが。これは私がするべきことなのだろうか。

私以外にそれができる人がいないというが、それをして私は何もできなくなって2年経つ。これから一生そうなのだろうか。私が積み重ねてきた40年(舞踏とは何かで触れられたキャリア。3歳から始めているからそういう表記になってしまうんです)はなかったことになってしまうのか。
私は一生懸命大学の1員として努力もしてきたし、鳥取の地域貢献を行ってきたけれど、評価されないまま、ただ続けていきたいとは思えない。

評価を求めている時点で本質的ではないと思う。ただ、お給料をもらう分お返しするべく務めてきた。逆に言えばお給料をもらわなければこれらの活動はしていなかった可能性が高い。銀河鉄道までは私の念がこもっているが、ここから先はいつでも消えれる。

舞踏とは何か

レクチャーパフォーマンスシリーズでお世話になっているダンスアーカイブ構想さんが舞踏に関する本を出した。
そもそも舞踏とはなんなのか?
今の舞踏に関わるダンサーさんたちに書いてもらうことで現出させようとした本で、ぶっちゃけいくらくらい収入あるんですかとかも書かれている。海外にいる舞踏ダンサー(フランスなどにはワークショップ(stage)などで生計を立てて暮らしている人が多くいます。)も含めている調査なのでリサーチとしても興味深い。ポップな装丁もいい感じなので(建国体操の北風さんたちのお仕事)是非みてください。
ここに私も載っています。密かに。
舞踏家じゃないんですけれど、と松岡さんとお話しした上で、そのまま書くことになりました。
舞踏の関係者の影響を受けている(大野一雄作品を作っただけではなく、山崎広太さん(同時期に一緒にいた笠井瑞丈くんが書いてくれている)や伊藤キムさんから受けた影響もあるだろう)せいもあります。が、私自身は踊子で、コンテンポラリーも舞踏も関係なく、ただ私のダンスだと捉えています。
海外にいる間はとりあえず日本のダンサーだからという理由でブトーと書かれていたりしました。その方が客が集まるのだそうです。Edgeの時にもOvOの時にもニュータイプの舞踏と紹介されていたので、もうあまりこだわりません。舞踏だろうが、コンテだろうが木野にしか踊れない踊りがあるというだけです。

今、現代美術の流れに似てなんとなく場所作りが作品になってきているけれど、踊子です。一応。

2020年2月16日日曜日

TPAM2020その2

TPAM時期は懐かしい人に会うときでもあり、ついでに打ち合わせをしたりもする。
とりあえず2月といっていた企画なくなったわけではないようで、え、ほんとに、まじでやるんですか。みたいなそんなことも起こる。(なので、突然告知が出るかもしれません。思えばレクチャーパフォーマンス2018を作った時も思いつきが12月27日で1月4日に場所を押さえて翌週には告知出してあの印刷冊子も含め3週間で作った記憶がある。そんな簡単にできないのに。やばい。結構)

2018年に鳥取にやってきたアティーナはなぜか隠岐の島で作品を作り、その発表があるというので見に行ってみたりする。(ちなみに照明が三浦あさこさんで、衣装が宮村泉さんという静コンビだった。そしてうちの学生さんが照明スタッフとして働いている)
ディディエテロンの作品も3名のダンサーと2名の車椅子ダンサーによる作品で車椅子であることを問わない作りをしていた。この日は石井達郎さんのアフタートークもあり、その中でインテグレイテッドという言葉を強調しているように感じられた。
みにきていた知人が「なんで車椅子の障がいだけを扱っているんだろう」と素朴に話す。
障がいと一口に言っても目、耳、言語、精神、ダウン症など様々な形がある。それらのうちなぜ四肢障がいだけが扱われるのだろうか。
鳥取の星のいりぐちさんはインクルーシブダンスと名付けて活動している。同じように健常者と障がいを持つ人とがともに踊っているが、それぞれができることを追求していく。時には健常者が合わせることもあるが、それは合わせてあげるというのではなく、ともに踊る喜びを分かち合うためでもある。
ここにインテグレイテッドとインクルーシブの違いが現れている。
統合した、完全なというような意味のインテグレイテッドに対し、インクルーシブは包括的なともに支えるような視線がある。ある意味インテグレイテッドの目指すところはパラリンピックの世界に似ている。ダンサーとして頑張る彼女たちは素晴らしいが一方で頑張らないといけないようにも見えてくる。プロと名付けて活動をしているせいもあるが、(実際現在も障がいを持つダンサーを募集している)一定のクオリティを求めようとした時のそのクオリティとは何を指すのだろうか。
あくまでそれは健常者の動きを基にしたレベルでの動き方、テクニックなのだろうか。
これは美とは何かをとうことでもある。

そういう点で劇団態変が示したものは大きかったと思う。これまでも彼らの作品を知っているが、(その中では妙にポップな作りだった)身体を観客の前に投げ出した。
昨年見せていただいたニコちゃんの会もちょっと近いところがある。

作品とは多かれ少なかれ新しい美の形の提示であると私は思う。
それが認められるか認められないかは別としてそれでもある強さ。
あるんだから、環境を変えてしまえばよい、そういう強さを持つことが大事なのではないかと思ったりもした。


たまたま帰り道が一緒だった評論家さんとTPAMもオリンピック関連で起きて5年事業だからどうなるかわからないんだよねという話を聞く。ちょっと残念。今年は特にhot potもあり、ダンス色が強く、見応えもあった(でもやっぱり謎作品もある)し、様々なカンファレンスに行くことで場を作る重要性や人が集うことの意味を考えたりすることができると思う。もう一つ残念なのはアーティストと呼ばれる人たちがほとんどいないこと。制作をする人も、劇場の人も、財団の人も、海外からのディレクターさんもたくさんいるけれど、同じ時代を作るべき作家がいない。時代を知るために勉強しよう、世界がどのように動いているか見ようという意識はないのかと思うと衝撃。
舞台芸術というこの世界を一緒に作っているんだという意識はないのかもしれない。

オリザさんの話がすごくいいとは言えないけれど、とりあえず、豊岡も劇団も一緒に社会全体をデザインしている意識はあるよねと思う。それは確かに大きな劇団を抱えている人だからというのはあるけれど、たとえ個人活動でも、社会のどこにボールを届けるのかあるいは爆弾投げるのか、それは誰と連動し、どのような波及効果を与えるか、そんなことを考えて動くものだと思っていた。だから私は今のところ鳥取開拓を続けるのですが、そんな視点の人はレアなのかもしれない。とちょっとショックを受ける。

2020年2月14日金曜日

鳥取夏至祭2020公募します!

バレンタインだからではないですが、今年もやりますよ!情報公開。
即興音楽とダンスによるフェスティバル 鳥取夏至祭2020公募要綱

鳥取夏至祭の理念
わたしたちは踊りたいから踊り、奏でたいから奏でる。音楽もダンスも美術も。今、ここで作り出されるその瞬間を楽しむために、プロもアマチュアも垣根を越えて、ただ遊ぶところから、全ては生まれるのだと思います。

■公演事業「鳥取夏至祭」及び連携する各種ワークショップ
 鳥取市中心市街地の多様な空間を活用した、即興音楽とダンスのパフォーマンスを6月第3週の夏至時期に開催しています。2017年より実施しており、引続き場所の特性を活かしつつ、日常空間の中で生のからだと音がぶつかる瞬間に立ち会う機会を創出し、表現の多様性を提示します。
参加するダンサー、アーティストにとっても、市街地の多様な場所を使って新しい創作環境と出会いを生み出すことができ、今後の作品制作に広がりを創り出そうとするアーティストの自発的な活動の契機となります。衰退が危ぶまれる商店街の空きスペースや公共空間を活用し、新たなパフォーマンス作品を生み出すことを目的としています。

1)鳥取夏至祭 周遊型公演
 鳥取市中心市街地の各所を回遊しながら即興のパフォーマンスを実施する。参加アーティストは公募により決定し、3日間パフォーマンスやワークショップをしながら鳥取の街の魅力を市民とともに探索します。
これまで2017年は駅周辺の中心市街地、2018年はとりぎん文化会館、県立博物館周辺、2019年は樗谿公園と鳥取東照宮、おうちだにグランドアパートで開催しています。
2)童謡・唱歌とおもちゃのミュージアムわらべ館でのワークショップ開催(1ヶ月に1回各1時間程度)
上記夏至祭と連携しつつ、音楽をテーマとする公立文化施設「わらべ館」と共催で、年間を通じ継続的にワークショッププログラムを実施しています。(文化庁大学における文化芸術推進事業)

日時:2020年6月19-21
場所:鳥取大学地域学部附属芸術文化センターアートプラザ、旧横田医院Hospitale)、わらべ館、鳥取市役所新庁舎他
主催:鳥取夏至祭実行委員会・キノコノキカク

共催:公益財団法人 鳥取童謡・おもちゃ館 わらべ館

後援:鳥取大学地域学部附属芸術文化センター(交渉中)

)
内容
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前夜祭(鳥取大学地域学部附属芸術文化センターアートプラザ他)
              18時30分開演
              定員:40名
              くじ引きによる即興ダンスと音楽のセッション(オービタルリンク、中沢れいさん発案)
              自己紹介的なパフォーマンス
   くじ引きにより3人組を作る
   各自が2分ずつ即興を行う(ダンサーは音楽家を指名したり、CDなど用いても良い)
   その3人でセッションを行う(4分)
20     
出演者はわらべ館にて場所の発掘、相談プラン立て
プチワークショップ@わらべ館いべんとほーる他
基本的に鳥取夏至祭は即興を推進していますが、即興の手法についても学んでいきます。昨年はMiyaさん(フルート奏者)よりブッチモリスによる指揮法(日本では大友良英さんも使用しています)を学びました。同様に小さなワークショップを行いたいと思っています。(講師未定、複数行う可能性あり)

18時 夜のわらべ館探検
わらべ館の中にあるおもちゃの中から音楽が、ダンスが現れます。照明効果と合わせて、いつもと違う夜のわらべ館を探索してみましょう。(わらべ館25周年企画)
21
              周遊型公演(2時間程度
 例年開催している因幡のおふくろ市への参入ですが、今年の開催がなくなる可能性が高いので、今年度は駅南側を中心としながら観客も移動しながらパフォーマンスを見る周遊型公演とします。
新しくできた新市庁舎も含め、駅周辺を開拓しましょう。

プレイベント
530日―61日照明研究会
三浦あさ子(照明家)とともに照明効果について考え学び合う会。神戸の小劇場ダンスボックスにて照明家とダンサーが自発的に開催してきた勉強会。今回鳥取特別版として開催予定。(日程など変更の可能性あり)
613日、14日のいずれかでわらべ館にて『即興音楽とダンスのワークショップ』開催予定。





公募要綱
鳥取夏至祭参加者を募集します。
基本的にこのお祭りは手弁当で行なっているものです。なのでギャラはありません。鳥取の街の人と遊ぶのだと思ってください。昨年まで行ってきたプチパトロンシステムや物販は今年も行えるようにします。そのため自力で稼いでいただくということは可能です。プレイベント、アフターイベントとして何らかのライブやコンサートを開催する場合は場所探しや広報協力などのサポートを行いたいと思っています。
遠方からの方には交通費の補助を行なっています。中四国地方、関西、中部は1万円、(上限2万円まで実費、領収書あるいはコピーをお願いします)、関東以北(北海道含む)、九州は2万円(同上限3万円)を支給。3年目になり、車で分乗して来る、バス利用、ツアーを組んで立ち寄るなど皆さんアイデアを出して工夫してきてくださっています。宿泊先は鳥取大学湖山クラブかアーティストレジデンススペースことめやを予定しています。
 鳥取県民の皆さん、ごめんなさい。鳥取県にアーティストをおむかえしようというおもてなし企画で県民の皆さんへの交通費支給は行なっていません。西部地区の方で宿泊が必要な場合の宿泊先は確保したいと考えていますのでご相談ください。

定員:15人程度(鳥取県内の方は定員はありません)。出来るだけ受け入れるべく努力しますが応募者多数の場合はそれまでの経験やPRを見てこちらで選考させていただきます。(結果は3月末日にはお知らせいたします。)

公募要件:
○音楽、ダンス、映像、美術、演劇などのパフォーマンスを行う方。これまで作品制作を何らかの形で行ってきた方。他のジャンル(どんな人が来るかはわからない)とのコラボレーションに柔軟に対応し、面白がれる方。
○即興音楽とダンスと銘打っていますがこのジャンルは参加できるか?などの質問はお気軽にどうぞ。OHPプロジェクション、映像プロジェクション、詩の朗読、演劇、美術などがこれまでありました。
○野外会場がほとんどということで電源の確保が難しいという問題があります。電子楽器、プロジェクターなど使用機材の関係で公演場所が制限されることがあることをご了承ください。パフォーマンス場所にピアノは基本ありません。(ある場所もあります)
○運営や企画に関わってくださる方も大募集中です。

参加いただける方は3月10日までに
   希望の滞在日程
   名前(活動している時の名前)、住所、連絡先、ジャンル(演奏する楽器など)などの基本情報(メールアドレス必須、HPなどあればそれも載せてください)
   これまでの活動経歴
      100字程度のものと少し長めのもの(300字程度)、及び写真(イメージなどでもOK)こちらはチラシに使用します。
③自己 PR
をお送りください。
お待ちいたしております!

応募先
鳥取夏至祭 実行委員会 
geshisai2020@gmail.com


問い合わせ先
木野彩子
saiko@ tottori-u.ac.jp 
0857-31-5130(鳥取大学地域学部附属芸術文化センター)
2020年2月14-16日TPAM 周辺におりますのでいつでも詳細について聞いていただければ。よろしくお願いします。l



2020年2月11日火曜日

TPAM2020

TPAMにて様々な懐かしい人に会う。
ちょっとずつ励まされ少し嬉しい。

私自身はダンサーであり踊子と認識しているのだけれど、学校という場を抱えていて、実質プロデュースや助成について考えていかなければいけない、鳥取という地域の作品制作環境全体を考えていかなければいけない立場なので、マネジメントの専門家の方々のお話を聞くようにしている。おそらくこれから多くのアーティスト(クリエイター)は自分で自分の生きる場所を作るだけではなく、他地域のアーティストを受け入れたり、地域の人を巻き込んだりが必要となってくるだろう。
今日は地域アーツカウンシルの話とハラスメントについて考える会の話を聞いた。
前者はおそらく鳥取でも必要となるであろう、そして大学がやればと思われているけれど、そんなに簡単なことではないというのを改めて感じた。また、当のパネルの人たちでもそもそも「都市部」と「過疎地域」では方向性が全く異なるものになっていることに気がつけている人と気がつけていない人がいることが明らかになった。過疎とは言わなくともいわゆる地域でも都市部からアーティストを呼ぶタイプの事業展開をしているところはたくさんある。しかしそれをやっていてはある種の植民地政策のようなもので、都市部のアーティストに収益が流れていく。地域の伝統芸能などに着目したり、既存団体のネットワーク形成のための支援をおこなっていくことが必要になってくる。
しかし地域の伝統芸能や主体的に動いている芸術活動がない地域はどうするのが良いのだろうか。そもそも何を持って「良い芸術」と言えるのだろうか。そもそも既成の芸術概念に疑問を投げかけ批判的に提示していくのが芸術の歴史であったことを考えた時に、すでに評価されているものを受け入れていくのではなく、独自の何かを生み出していけないものなのだろうかと思ったりもする。
後者はここ2、3年様々なところで話題になっており、(主に演劇業界)身内に関わるなあと思うので気になっていた。今回の説明ではセクシャルハラスメントと性暴力に重きが置かれていたが、ハラスメントそれ自体も問うべきであろう。と同時に、作品を作るという上で人との関係性がそれだけビジネスライクになってきているということの現れでもある気がする。(これはハラスメントを容認するということではない)
どんなアーティストにも言えることだと思うが、この人でなければできない、この人を生かすためのプロジェクトが立てられていくように各役者、ダンサーも考えていく必要があるのではないか。自分の個性をちゃんと立てること。
大学4年生の時に今でいうハラスメントを受けてそのショックから立ち上がれず、役者になろうとしたり、学校の先生になったり迷走し、今でもダンサーとしてはダメなんだと思ってしまう(大学時代もまたある種のハラスメントであったと思うし、それにより苦しんできた歴史がある)が、パフォーマーとして弱い人になるな、それは言える。
喧嘩売り返しちゃうようなところあるから、苦労もしてきたけれど、舞台上でちゃんと人としてあるために、普段生きるところから考えてみる必要もあるのではないか。
相談窓口なども作っているという。答えはなくとも、みんなで考えていくことはできる。そういう動きが起きていることを知って嬉しく思う。

建国記念の日2020

おおよそ2年に一度くらいのペースでこの時期には作品を発表しており、建国記念日とバレンタイン(この合間に修論審査とか試験、会議があるので平日はちゃんと戻っているところがすごい)はレクチャーパフォーマンス(ダンスハ体育ナリ?)の日な気がしていて(でも本当は静やダンコレ時代からずっと続いていたのでレクチャーパフォーマンスの日ではなくキノコダンスの日)しっかり開けていたのですが残念ながらできず。その代わりTPAMなどいろんな人の舞台は観に行ける。
舞台人皆自分のことでいっぱいいっぱいになってしまうけれど、本当は同じくらい見るということもしないといけないよねと思う最近。

建国体操ヲ踊ッテミタでは建国記念日に建国体操というネタだと思われる話題を提供しつつ、1930年から40年ごろの世相の変化を述べていきました。全体主義に変わっていく様、表立った検閲があるというよりも、自主規制による影響が大きくあること、じわじわと教育やメディアを経て変化していく様子。この2年の間に時制は大きく変化し、日本だけではなく、(しかし日本の現状は報道の自由ランキンングを見てもかなりまずいと思われる)全世界的に自分の国だけが勝てばいい、自分の周りが勝つためにいかに搾取するかという思想になってきていることが本当に不安に感じられます。顕著な例がイギリスで、気持ちはわからなくはないが、住んでいただけにちょっと悲しく感じます。
インターネットやAIなど便利に、そして個人でも世界につながることができるようになった一方、常に戦いが続いているような気がしてならないのです。
面白いか、笑えるか、インパクトを出せるか、顧客を満足させるにはとサービス業のようにどんどん新しい「作品」が生み出されていく。より刺激を求めて進化していく、それが資本主義であり、それはアート業界でも同じことが言えます。なのでコンペティションは無くならないし、ある意味それは洗練とも言えるかもしれないです。
でも芸術の価値は戦いではなく、自分にはない視点と出会うことができるというところにあるとしたら発想の転換はいくらでも想定できるはずで、答えは一つではないはずです。人生が多様であるように、身体も多様であり、表現もまた多様です。
それは評価されるされない、売れる売れないとは関係なく、私はこう思うと自分の考えを持ち自分の言葉でそれを発し続けていくことで表すことができます。大きな流れは争うというよりは、ちょっと違う向きのまま新しい支流を作ってしまうこと、それが今必要とされている芸術の力なような気がします。なんだかおかしいよね、不安だよねというその言葉をちゃんと述べること、それが今一人一人にできることです。

2018年ドイツ文化センター版で触れた凡庸な悪(映画「ゲッペルスと私」などを見たせいもあります)、2019年早稲田版でふれた表現の自由、少しずつその時話していたことが実現していってしまう怖さ。私はダンサーは巫女のようなもので、現代の巫女としてはそれなりに勉強をしなければと思い、歴史などを踏まえたレクチャーパフォーマンスをするようになったのですが、資本主義の次に進む思想が必要なのだと痛感しています。進化ではなく競争でもなく、それはあたたかな陽だまりや人の温もりのようなものなのですが、まだうまく説明できません。





2020年2月8日土曜日

舞台芸術実践(身体表現)2019

3年生の授業は実践として身体表現を学ぶ内容に。ワークショップの概念を学んだ上で、これまで学んできたものをもとにそれぞれの興味を膨らますべくワークショップをつくり、実際に行ってみて、皆からフィードバックをもらう前半戦。年が明けてからの後半は皆で協力して作品を作りました。
舞台スタッフ志望の子や、音楽のDJをやってる子、役者志望など志向も様々なのでそれぞれの得意ジャンルを繰り出しながら自分たちが入学してから卒業して出ていくという様子を4分ほど(即興的な部分を含むので毎回時間が変わるのです)の小作品にまとめました。
IchIのセットも解体し、8人で動かしながら構成していくという(もはや茶室としては機能していませんが、きっとしずかさんも許してくれると思う。10年越しの再利用ですね。。)。短い期間ではありましたがよくまとめました。

発表(ビデオ撮影)をしていたら、誰も触れていないのに照明がふっと、おちるアクシデントが。死者の書城崎、鳥取、銀河鉄道、と私が関わる作品では照明卓が必ず消えたり、データが飛んだり、ということが起き、「滋賀津彦きちゃったよ(死者の書のキャラクター)」と話していたのですが今回もまた。普段、音楽のコンサートとか、照明の講座(先日もこのセットを入れてくれた大阪共立の方が来てくれて講座を行ってくれたばかり)なども全く問題がないのに、私がらみだけ。滋賀津彦、喜んでるんだろうか、それとも踊りやめさせようと企んでいるのだろうか。あまりにも頻繁に起こるので照明卓買わなきゃダメかもね、という話が上がり始めました。あまりいないと思う、my照明卓持ってるダンサー。ますますなんの人かわからなくなりつつある最近。

2020年2月3日月曜日

対話はつづく、多分。

今から10年近く前帰ってきて上演した作品「IchI」は自分の中にいるもう一人の自分との対話がテーマになっていた。背後に隠れていた光持ち係(黒子)がいつの間にかパーソナルスペースに侵入し乗っ取られてしまう。一方その黒子も背後に浮かび上がる影に飲み込まれて全ては闇に包まれる。(はじめに戻る)「からたち」に出てくヨハネの言葉のように。

その後自分で自分のことを自己紹介するためのダンス「北海道札幌市中央区南6条西26丁目」を作り、その延長上で、家と祖母のことをもとに作った作品「かめりあ」がうまれた。この頃から私は作品が答えではなく作品自体が問いかけとなるような作品を作り始めている。クエスチョンとアンサー、謎の作品文通が始まって、いろんなところと呼応しながら1つ1つ作り続けてきた。Mobius、死者の書、銀河鉄道、全ては対話とともに作られている。
札幌自己紹介ダンスを見て「私小説ダンス」だと佐東さんはいう。珍しく、でも見れてしまうのはなぜだろうとも。当たり前だ、なぜなら全ての人が同じような私の小学校、中学校、高校をたどっているからだ。多かれ少なかれ家族のことや学校のことを抱えて私たちは成長してきた。だから、そこは一番触れやすいところでもある。
個人の小さな記憶や思い出は実は壮大なお話にも繋がっていたりする。
だからあなたのつぶやきは結構大事なのだというメッセージを作り上げていくために、ほとんどの作品はソロ作品になっている。個人だからできることがあるし、個人がきちんと個として生きていなければ社会は成り立たない。
個が自由にある場、そして個だけれども個ではない背景が見えるようにしていく作業それが作品づくりであり、夏至祭などに至るまで全てそのための仕組みになっている。夏至祭も銀河鉄道祭もそれぞれの人がどのように振る舞い、何を発見するかは委ねられている。集団だけれどもあくまで個の作品である。

集団を動かしていく作品はまた異なる視点が必要になる。大きな流れを俯瞰するという意味で神様の目に近くなる。でもそれもまた、それぞれの個がありて集団が成り立つべきであり、一つのリーダーシップや方向性に引き寄せる形ではないのではないだろうか。インパクトを出し、集団としての個性を打ち出していく必要があるので、一概にはいえないが、10年前と今だと目指すべきものは変わってきているような気がする。
それでも変わらないのはそれぞれの個がもう一人の自分を持ち、対話をしている状態は、悪いことではないような気がする。茂登喜に似て、同行2人ににて、ともに考え続けている。規模も違うし、空間も違うが呼応しながら今もある。目に見えるものばかりが全てではないし、それをあらわしていくことがおそらく演劇ではできない舞踊(ダンス)の行うべきことなのだろうと思う。

言葉の世界を超えて受け取ってしまったものは言葉化できないのかもしれない。

演劇はある種社会の縮図でもある。ギリシャ悲劇の時代から市民の公を作り続けてきた。それに対し、舞踊は様々な形で法や秩序を破壊するエネルギーでもあったので、禁止されてきた歴史を持つ。今でもいかがわしいなどのイメージが根強く残る(風営法は改正されたけれども)。社会に還元できるような形に転化していくことも一つの方法で、大事な学校教員としてのお仕事だが、そもそも、舞踊とはなんだったのかを問うことも今の立場だからこそできる重要な役割なような気がする。新しい社会はどのようにあるべきかを示すのが演劇の理論力だとした時に、舞踊はおそらくそのエネルギーとして存在し、批判的に批評的に捉えつつ、実際に前に進む一歩を踏み出させるのだろうと思う。
人間の生命力と、本能の力を私は信じたい。

菊先生が来るらしい

大学院時代の恩師が来るというので、冷や汗かきながらまず夏至祭についてまとめてみた。銀河鉄道祭についてはドキュメントを作るので、そちらにおいておいて、あのお祭りが意味することはわらべ館ワークショップと合わせて考えていく必要があり、そこにランシエール「無知な教師」と「解放された観客」の2つが援用できる。(正しくは最近初めて読んだけれど、これが当てはまるということ)人工地獄でもいいのだけれど、理論上はランシエールの方が近い。
そしてそれは理想論に過ぎないところもある。

最終的に平等とはどのような状態で成り立つのだろうかという投げかけは私を即興というジャンルに向かわせた。ヒエラルキーをなくす一時的な遊びの時間を作り出すにはどうするか。劇場外へ、まちなかへ、観客と出演者の境目をなくしてという試みは1960年代から70年前半に一時期流行り、そして収束していく。そのリメイクでもある。アート全体がコレクティブになったり、参加型になったり、協働していく形になって、ある種社会の縮図化していき、またそのためのシステム、あるいは場、環境の構築がアーティストの仕事となっていく中、パフォーミングアーツで行うとしたらどういうことかを、私の手の回る範囲でとにかく作ってみたということだ。

3年が経過し、現在の規制が厳しくなっていく世の中ではまた別の問題が生まれてきていて、アートが綺麗で、管理され、無害化していっていて、あの時のある種の猥雑とも言えるエネルギーはどこに消えたのだろうかとふと思う。私は舞踏やアングラ演劇の第1世代をリアルタイムで観れていない世代になる(一雄さんとかかなり早めに観れているとはいえ、土方の頃とはだいぶん異なる)。人が生きるということはそんなに綺麗で美しいものばかりではないけれど、そういうものだけが認められるような世の中にはなってほしくないなと思う。生き延びるための経済活動は必要だ。でも経済だけでまわるものではない。自分は何のために踊っていたのだろうかという元々の部分を思い出すためにも、このようなものを維持していくこと、それを許されるような関係性を作っていくことが大事なのではないかと感じている。

2020年2月2日日曜日

壬生寺の鬼

とりあえず呼んでいることはわかるけれども、そして行きたい気落ちもあるのだけれども、我慢する。朝から色々迷いに迷い、珍しくやめることにする、でも止まらない勢いでとりあえず京都に向かう。
節分ということで壬生寺の狂言を見に行く。今日はお焚き上げもあってものすごい煙を浴びてしまう。実は昨年も行ったのだが、このお焚き上げは初めてで衝撃を受けた。すごい。
節分は同じ演目「節分」を8回(約45分の作品を1時間に一度)上演する。2日間続くので演者も大変だと思う。女性がイワシと柊を柱に備え、豆を用意していると、おじいさんが出てきて(どうでもいいけれど耳が犬か狐っぽい)言祝いでくれる。ホッとしていたら鬼がやってきてびっくりするが、鬼も考えて打ち出の小槌で出した衣装で変装。女性にも着物や帯をあげて喜ばせる。さらにお酒を出してきたところで、鬼に飲ませる女性。女性は自分では飲まず、酔っ払った鬼から小槌を盗む。さらに鬼の衣装を剥ぎ取る。そうしたらなんと鬼で驚き!!ごめんなさいーとお経をあげつつ、豆を投げて追い払う。
さて、いま冷静に考えてみて、鬼、本当に悪いやつなんだろうか。
鬼、もしかしたら惚れた女に貢いじゃう困ったやつかもしれないが、実は悪いやつではないかもしれない。
ここしばらく佐渡島含め鬼話を読めば読むほど、鬼、ちょっと可哀想なやつだったりする。

狂言の解説によれば、欲がくらむことをよくないという教訓のようだが、よく見れば女性の欲も見えてくる。初めの着物の時よりも帯の時の手の差し出し方が強くなっていたり。つまりどんな人の中にもそのような欲があるということを示している。鬼、むしろ欲がなく、いいやつなんじゃないか。
鬼はおぬ、隠れ(隠)から派生した言葉だという説もあり、余計に気になってしまう。


蛍の光

前回取り上げた蛍の光、スコットランド民謡ですが、日本語の歌詞とは全く異なる内容です。ただ日本の歌詞も戦中は異なっていて、日本の領土拡大とともにどんどんと歌詞の範囲を広げていったのだそう。今ではすっかりスーパーの閉店の時の曲とか卒業式とかそういうイメージになっているけれども、この曲によくない思い出のある人もいるだろう。

東京オリンピックの最後の時にも蛍の光を歌ったという。
その本来の意味を思ったら、第二次世界大戦の復興を歌うオリンピックで歌うべき曲ではないことがわかる。
私たちは意外にものを知らないし、鈍感だ。
ファシズムは本質的に大衆運動であり、広義のファッション(流行)として国民の中に浸透して行く。
国家の下で行われた歌詞の改変、削除、墨塗り、そしてそのことに対する私たちの無知、無関心、そして忘却。震災にしても原発にしても、同じことが繰り返されているような気がしてならない。構造化したこの心性の持ち方こそ、現代における「あやうさ」だろう。唱歌や童謡は「懐かしさ」の中にある「あやうさ」を抱えている。それを心に留めながら歌を思い歌を歌うことが大事ではないか。

わらべ館で学生たちがミュージカルを作っているのを待つ間、図書資料を見る。赤い鳥とかもある。北原白秋も一時期は戦時下において軍歌を作っていた頃があったという。かめりあでも赤い屋根の歌をはじめとして童謡を使用しており、体操レクチャーのこともあり、かなり詳しくなってきた。明後日には大学の先代の先生より、昔の資料を預かる。続き作らなければと思い、今はなぜ日本は戦争をおこしたかをよむ。今日は3時起き。

肝心の学生さんは頑張っていたけれど、でもこの人たち、私が授業で言っていることぜんぜん伝わっていないんだなあと少し凹む。反省。根本的なところが理解できていないというか抜け落ちている。こうして色々なものが失われていってしまうんだなあとも。だから無知の教師だったのかもとも思う。