2020年2月11日火曜日

建国記念の日2020

おおよそ2年に一度くらいのペースでこの時期には作品を発表しており、建国記念日とバレンタイン(この合間に修論審査とか試験、会議があるので平日はちゃんと戻っているところがすごい)はレクチャーパフォーマンス(ダンスハ体育ナリ?)の日な気がしていて(でも本当は静やダンコレ時代からずっと続いていたのでレクチャーパフォーマンスの日ではなくキノコダンスの日)しっかり開けていたのですが残念ながらできず。その代わりTPAMなどいろんな人の舞台は観に行ける。
舞台人皆自分のことでいっぱいいっぱいになってしまうけれど、本当は同じくらい見るということもしないといけないよねと思う最近。

建国体操ヲ踊ッテミタでは建国記念日に建国体操というネタだと思われる話題を提供しつつ、1930年から40年ごろの世相の変化を述べていきました。全体主義に変わっていく様、表立った検閲があるというよりも、自主規制による影響が大きくあること、じわじわと教育やメディアを経て変化していく様子。この2年の間に時制は大きく変化し、日本だけではなく、(しかし日本の現状は報道の自由ランキンングを見てもかなりまずいと思われる)全世界的に自分の国だけが勝てばいい、自分の周りが勝つためにいかに搾取するかという思想になってきていることが本当に不安に感じられます。顕著な例がイギリスで、気持ちはわからなくはないが、住んでいただけにちょっと悲しく感じます。
インターネットやAIなど便利に、そして個人でも世界につながることができるようになった一方、常に戦いが続いているような気がしてならないのです。
面白いか、笑えるか、インパクトを出せるか、顧客を満足させるにはとサービス業のようにどんどん新しい「作品」が生み出されていく。より刺激を求めて進化していく、それが資本主義であり、それはアート業界でも同じことが言えます。なのでコンペティションは無くならないし、ある意味それは洗練とも言えるかもしれないです。
でも芸術の価値は戦いではなく、自分にはない視点と出会うことができるというところにあるとしたら発想の転換はいくらでも想定できるはずで、答えは一つではないはずです。人生が多様であるように、身体も多様であり、表現もまた多様です。
それは評価されるされない、売れる売れないとは関係なく、私はこう思うと自分の考えを持ち自分の言葉でそれを発し続けていくことで表すことができます。大きな流れは争うというよりは、ちょっと違う向きのまま新しい支流を作ってしまうこと、それが今必要とされている芸術の力なような気がします。なんだかおかしいよね、不安だよねというその言葉をちゃんと述べること、それが今一人一人にできることです。

2018年ドイツ文化センター版で触れた凡庸な悪(映画「ゲッペルスと私」などを見たせいもあります)、2019年早稲田版でふれた表現の自由、少しずつその時話していたことが実現していってしまう怖さ。私はダンサーは巫女のようなもので、現代の巫女としてはそれなりに勉強をしなければと思い、歴史などを踏まえたレクチャーパフォーマンスをするようになったのですが、資本主義の次に進む思想が必要なのだと痛感しています。進化ではなく競争でもなく、それはあたたかな陽だまりや人の温もりのようなものなのですが、まだうまく説明できません。





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