2020年2月16日日曜日

TPAM2020その2

TPAM時期は懐かしい人に会うときでもあり、ついでに打ち合わせをしたりもする。
とりあえず2月といっていた企画なくなったわけではないようで、え、ほんとに、まじでやるんですか。みたいなそんなことも起こる。(なので、突然告知が出るかもしれません。思えばレクチャーパフォーマンス2018を作った時も思いつきが12月27日で1月4日に場所を押さえて翌週には告知出してあの印刷冊子も含め3週間で作った記憶がある。そんな簡単にできないのに。やばい。結構)

2018年に鳥取にやってきたアティーナはなぜか隠岐の島で作品を作り、その発表があるというので見に行ってみたりする。(ちなみに照明が三浦あさこさんで、衣装が宮村泉さんという静コンビだった。そしてうちの学生さんが照明スタッフとして働いている)
ディディエテロンの作品も3名のダンサーと2名の車椅子ダンサーによる作品で車椅子であることを問わない作りをしていた。この日は石井達郎さんのアフタートークもあり、その中でインテグレイテッドという言葉を強調しているように感じられた。
みにきていた知人が「なんで車椅子の障がいだけを扱っているんだろう」と素朴に話す。
障がいと一口に言っても目、耳、言語、精神、ダウン症など様々な形がある。それらのうちなぜ四肢障がいだけが扱われるのだろうか。
鳥取の星のいりぐちさんはインクルーシブダンスと名付けて活動している。同じように健常者と障がいを持つ人とがともに踊っているが、それぞれができることを追求していく。時には健常者が合わせることもあるが、それは合わせてあげるというのではなく、ともに踊る喜びを分かち合うためでもある。
ここにインテグレイテッドとインクルーシブの違いが現れている。
統合した、完全なというような意味のインテグレイテッドに対し、インクルーシブは包括的なともに支えるような視線がある。ある意味インテグレイテッドの目指すところはパラリンピックの世界に似ている。ダンサーとして頑張る彼女たちは素晴らしいが一方で頑張らないといけないようにも見えてくる。プロと名付けて活動をしているせいもあるが、(実際現在も障がいを持つダンサーを募集している)一定のクオリティを求めようとした時のそのクオリティとは何を指すのだろうか。
あくまでそれは健常者の動きを基にしたレベルでの動き方、テクニックなのだろうか。
これは美とは何かをとうことでもある。

そういう点で劇団態変が示したものは大きかったと思う。これまでも彼らの作品を知っているが、(その中では妙にポップな作りだった)身体を観客の前に投げ出した。
昨年見せていただいたニコちゃんの会もちょっと近いところがある。

作品とは多かれ少なかれ新しい美の形の提示であると私は思う。
それが認められるか認められないかは別としてそれでもある強さ。
あるんだから、環境を変えてしまえばよい、そういう強さを持つことが大事なのではないかと思ったりもした。


たまたま帰り道が一緒だった評論家さんとTPAMもオリンピック関連で起きて5年事業だからどうなるかわからないんだよねという話を聞く。ちょっと残念。今年は特にhot potもあり、ダンス色が強く、見応えもあった(でもやっぱり謎作品もある)し、様々なカンファレンスに行くことで場を作る重要性や人が集うことの意味を考えたりすることができると思う。もう一つ残念なのはアーティストと呼ばれる人たちがほとんどいないこと。制作をする人も、劇場の人も、財団の人も、海外からのディレクターさんもたくさんいるけれど、同じ時代を作るべき作家がいない。時代を知るために勉強しよう、世界がどのように動いているか見ようという意識はないのかと思うと衝撃。
舞台芸術というこの世界を一緒に作っているんだという意識はないのかもしれない。

オリザさんの話がすごくいいとは言えないけれど、とりあえず、豊岡も劇団も一緒に社会全体をデザインしている意識はあるよねと思う。それは確かに大きな劇団を抱えている人だからというのはあるけれど、たとえ個人活動でも、社会のどこにボールを届けるのかあるいは爆弾投げるのか、それは誰と連動し、どのような波及効果を与えるか、そんなことを考えて動くものだと思っていた。だから私は今のところ鳥取開拓を続けるのですが、そんな視点の人はレアなのかもしれない。とちょっとショックを受ける。

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