2020年2月3日月曜日

菊先生が来るらしい

大学院時代の恩師が来るというので、冷や汗かきながらまず夏至祭についてまとめてみた。銀河鉄道祭についてはドキュメントを作るので、そちらにおいておいて、あのお祭りが意味することはわらべ館ワークショップと合わせて考えていく必要があり、そこにランシエール「無知な教師」と「解放された観客」の2つが援用できる。(正しくは最近初めて読んだけれど、これが当てはまるということ)人工地獄でもいいのだけれど、理論上はランシエールの方が近い。
そしてそれは理想論に過ぎないところもある。

最終的に平等とはどのような状態で成り立つのだろうかという投げかけは私を即興というジャンルに向かわせた。ヒエラルキーをなくす一時的な遊びの時間を作り出すにはどうするか。劇場外へ、まちなかへ、観客と出演者の境目をなくしてという試みは1960年代から70年前半に一時期流行り、そして収束していく。そのリメイクでもある。アート全体がコレクティブになったり、参加型になったり、協働していく形になって、ある種社会の縮図化していき、またそのためのシステム、あるいは場、環境の構築がアーティストの仕事となっていく中、パフォーミングアーツで行うとしたらどういうことかを、私の手の回る範囲でとにかく作ってみたということだ。

3年が経過し、現在の規制が厳しくなっていく世の中ではまた別の問題が生まれてきていて、アートが綺麗で、管理され、無害化していっていて、あの時のある種の猥雑とも言えるエネルギーはどこに消えたのだろうかとふと思う。私は舞踏やアングラ演劇の第1世代をリアルタイムで観れていない世代になる(一雄さんとかかなり早めに観れているとはいえ、土方の頃とはだいぶん異なる)。人が生きるということはそんなに綺麗で美しいものばかりではないけれど、そういうものだけが認められるような世の中にはなってほしくないなと思う。生き延びるための経済活動は必要だ。でも経済だけでまわるものではない。自分は何のために踊っていたのだろうかという元々の部分を思い出すためにも、このようなものを維持していくこと、それを許されるような関係性を作っていくことが大事なのではないかと感じている。

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