コンテンポラリーダンスは現代の諸問題を舞台芸術として表す舞台芸術の1ジャンルである。海外も含めプロとして作品を制作し、踊り、暮らしていたが、いつからダンスは特別な人が踊るものになったのだろうと思うようになった。より過激な表現、特殊なテクニックが求められるようになる一方で、すべての人の身体はそのままある種の個性であり、それぞれに様々なダンスが生まれていくと良いのではないかと感じるようになった。
歌手のバックダンサーやストリートダンスの影響で日本国内では一般にダンスというと決められた振りを覚えるもの、リズムに合わせて動くものと思われている。実際にダンスクラスの多くは教師(あるいは振付師)の動きをいかに正確にこなす身体を作るかに重きが置かれている。クラシックバレエをはじめとした西洋の近代舞踊の多くがそれにあたる。しかし様々な身体があり、一概に合わせることはできないだろう。近代ゆえのある種の規律化は集団制や一体感を生み出す上では重要なポイントでもある。しかし現代において、体格、年齢、障がいの有無など様々な違いがある人が共に楽しむためには、むしろその差異を面白いと思うようにならないものかと私は考え、即興と呼ばれるジャンルに注目している。鳥取においては「即興音楽とダンスのワークショップ」(共催わらべ館)[1]や「鳥取夏至祭」[2]という実践を通じて、様々なダンスの可能性を伝えようと努めている。言語による対話と同じように、身体を通じてコミュニケーションを図っていくことによって、遊びながら自然と動きの語彙量を増やすことができ、様々な運動を行うことで身体感覚を上げていくことができる。子供達の動きは自然で、それを見るといかに自分も含めた大人たちが何かに捉われているかを知る。自分が思うままに身体を動かして良い空間、時間。あるいは逆に動かなくても良いという自由。子供につられて動いてみると老若男女それぞれに思いもしなかった動きが生まれてくる。ある種のカオスのような時間だが、それが本来のダンスや祭の持っている力だったのではないか。
日本古来からある祭りもまたパレードのように集団で見せる踊りへと変貌しつつある。しかし古くから伝わる祭に着目すればするほど、終焉には演者も観客も紛れて浮かれ踊るかのような瞬間が発生する。自身の感覚が融解したかのような時間の共有はその地域のコミュニティの形成に役立ってきた。
どんな人も自分の身体から離れることはできない。どのように身体に向き合っていくかは長く体育でも問題視されてきた。様々な健康に良いと呼ばれる体操がメディアにおいても推奨される。ただここでいう健康[3]とは単純に長生きできればいいということではない。数値を上げたり勝ち負けで評価をしきることができない、人生の質(Quarity of life)に着目するとき、自分の身体と豊かに向き合っていくためには、創造性の視点から想像力を働かせてみることが結構重要なのではないかと私は捉えている。身体の持っているリズム、揺らぎを私たちはまず感じ取れているだろうか。その上ではじめてそれぞれの身体の違いを知ることができるようになる。身体はミクロコスモスと三木成夫が指摘するようにすべての生命の記憶が私たちの身体に埋め込まれているだけでなく、宇宙のすべてがそれぞれの身体に含有されている。そこから何を紡ぎ出すかはすべて身体が知っている。あうんの呼吸や間といった非言語の、しかし確実にある感覚を現代社会では見失いがちではあるが、どれだけ重要なことか。すべてをデジタルに置き換えてしまうことはできないし、その言語化やデジタル化ができない領域こそがおそらくAIやバーチャルリアリティにはなし得ない人間のそして身体の最後の砦であろう。身体について考えるから身体から考えてみるへ。身体はすべての人がどのような形であれ有しており、機会は平等にすべての人に与えられている。自分の身体の素直な声を聞いてみるということからはじめてみよう。それもまたダンスと言えるのではないだろうか。
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