2020年1月4日土曜日

続けるということ

この年末年始、一度北海道に戻りバタバタしていたものの、お正月っぽいお正月を過ごした。初詣(今年は北海道)にも行きました。(昨年、一昨年は明治神宮ものをやった関係で明治神宮でしたが今年は脱しました。)

何だか遺言のようなメッセージが寄せられ、複雑な心境に。よほど心配されているに違いないと思いながら、とにかく続けてくださいねと書かれている。
ちなみにおみくじには
かげくらき つきのひかりをたよりにて しずかにたどれ のべの細道
とあって、細々と続けなさい、でも強いてはするなと書かれている。

続ける、継続性について考えていたところ、ミナペルホネンの展示タイトルが「つづく」だったことを思い出す。@現代美術館
本当はダムタイプ展を観に行ったのだけれど、鈴木昭男さんの音立てもあるし、mamoruくんの作品も観れたし(収蔵されたとのこと。おめでとうー)いろんな意味で盛りだくさんの内容でした。正直全部見ようとすると一日かかるやつです。

ミナは開始から25年。その間のプロセスを自然の循環と合わせて展示しており、様々な服による森や長年着続けている人の暮らしの映像、その服(とその記憶)の展示などで構成されていて、長く着続けることができる服、一度限りで終わりではなく、少しずつ応用しながら広げていくことで、作る人、作った生地を無駄にせずやっていこうというポリシーを浮き立たせる展示でした。ぶっちゃけいうとその分値段もそれなりに高い。でもそういう思想が作り出しているのがブランドでもあり、それを100年続けようと走ってきたのが皆川さんなのだと思います。
100年先どのような地球になっていて欲しいと私は思うか。

舞台芸術はその時限りのものです。
だからこそ美しい。でも消えてしまうがゆえに継続性が見えにくい。
ダムタイプ展は美しい映像とインスタレーションで魅了されながらも、やはりライブとは異なるものであるということを改めて感じました。
私にとって大学1年の頃に見たS/N@池袋芸劇(古橋さんのなくなった直後の公演です。私の周りでこれをみた人がいなくて、この衝撃をシェアできなかったことは大学から離れて自分で探さなきゃ意識を持つきっかけになりました)はかなりの衝撃で、今回過去作と見ることで様々な発見をできたものの、生身の人が持つ力、生身の人の不在ということが持つ力を改めて感じました。どんな人の一生も等しく美しく、それぞれの人の生の声に勝るものはないと思った直感は今の作品作りにもつながっています。
ただ今回の展示ではそれを得ることはできない。
Loversを泣きながら見た身としてはあれ、こんなだったっけと拍子抜けするところも。(なお、Loversの曲を用いて「月に立つクローン」という作品を作らせていただいたことがあります。)
でもそれでも次の世代がそれを知るためにもこのような展示が必要だと思ったのでした。
たまたま遭遇した10年以上の古い友人が、見てみたいと思っていたのでと話していて、そういうためにもダンスをのこすための活動は必要だと思ったのでした。
そう思う一方でダンスはのこすことができないということも知るのでした。

ピナバウシュなど大きなカンパニーでは長く定番として上演される作品があります。それらは代々引き継がれますが、やはり少しずつ変わっていきます。クラシックバレエもそうですが、そうやって残すための努力を行ってきた。
コンテンポラリーダンスはクラシックになっていくのだろうか。そういうものを目指していくものなのだろうか。

100年後、ダンスはどのようになっていて欲しいか。
また、
100年後、世界はどのようになっていて欲しいか。

今、私のみている世界では真っ暗闇しか見えなくて、継続はできるけれど、人の心が沈んだままになっていて。それを乗り越えていくのは賢治ではないけれど自分のために踊る(作品を作る)という所に戻るのだろうと思うのでした。
評価や誰かのため、社会のためではなく、
ただ自分のために生命を燃やすこと、それが星としての生き方です。
100年先のための一あしあとを残しましょう。








0 件のコメント:

コメントを投稿