夏至祭と銀河鉄道祭それぞれ文章化しようとしていたタイミングで、岸井大輔さんがやってきたので、人工地獄を読み直す。(ことめやで開催されているアートプロジェクト講座。でも急に行けることになったので講座の前に読みきれないままいく)
夏至祭の始まった後にこの本を読み、参加型アートの歴史を知り、「革命」な感じ(鳥取夏至祭は小さい革命として作っていて私も主謀者とプロフィールに上げている)は、「知らなかったとはいえそういうことかー」と思った記憶がある。「人間は恋と革命のために生きるのです」(by太宰)は2018年のテーマ。
夏至祭はもともと劇場を捨てて街へ出る寺山修司的発想から始めていていて、その原点は小学生の頃に行っていたウルトラクイズ(当時住んでいた場所の桜丘町、南平台町エリア)に遡る。その主催者だった子は今どうしているのかなと思うけど、すごく面白かった記憶がある。まちなかを歩き回り、探索し、知っていくそのこと自体が何よりも面白い。演じることは特殊なことではなく、日常と作品の境目は私にとってなかった。中学の頃は生徒会で学校全体を使って鬼ごっこ。高校の時は一応演劇をしていたけれど。
現実は虚構を上回る。いくら素敵な俳優さんでもダンサーでも普通のおばちゃんの一声にかなわない。そんなことを思うし、だからこそコンテンポラリーダンスの良さはあると思っていたので、鳥取に来てまずすべきは多様性を紹介することだと考えた。
鳥取で数少ないコンテンポラリーダンスの人間としているものの、自分の作品は暗いし、一般受けしないから、様々な身体や作品の形があっていいんだというそのことを知ってもらうために始めた鳥取夏至祭。出来るだけ多様な表現を。そしてこれもアリなんだという発見を。
コンテンポラリーダンスなんて見たことないような純粋鳥取人に伝えるべく私が鳥取にいるうちは開催していこうと考えている。
岸井さん解説とともに人工地獄を今改めて読み返しながら、夏至祭の発展系である銀河鉄道祭は人々をある種誘導し、持ち上げていくような活動であったことを思う。また、それゆえのカタルシスが生じていた。
夏至祭は本来は銀河鉄道祭的なものを目指していたのかもしれないが、参加者の数が少ないせいか、動員色は低く、それよりもアーティスト間のネットワーク形成に力点が置かれていく。もともとはまちなかの空きビルなどを利用しながら自由に作品発表できる場所を発見していこうと考えていた。まちづくりなどにも応用できる仕組みだと捉えていた。人(アーティスト同士)とも場所とも出会える出会い系である。私自身は自分が若い世代にできるとしたらそういうことだと思っていたし、私はそういう場所を開拓してきたし欲してきたが、若いアーティストにとってそこはそんなに大事ではないらしい。全部が用意された場所や、作品として発表できる場所が必要なようだということに気がついた。
ただ、そんな用意された場所で作る人、私は興味がない。
まちなかを探求する面白さをいざこざ言わず、探求する人を求めます。
それを搾取というのかは資本主義経済の考え方であって、私は楽しいのために働く。
生きるための最低金額を維持できたら、その先は自分の力で稼いでいく。
誰かが主導し、乗っかるのではなく、
ただブラブラするわけではなく、
お客さんとアーティストが同じレベルで遊ぶ時間に戻すこと、それをしたいだけだったのだと改めて感じた。
人工地獄はシュリンゲンジーフで終わる。政治的メッセージでもありながら、その判断は観客へゆだねる。それが今の時代のコンテンポラリー。なぜなら多様な判断ができ、それぞれの思考を促すことに価値があるから。それをしているのは「ダンスハ体育ナリ?」。おそらく言葉の力を借りなければ思考までは動かない。これを作った当時(2016、2018)私は明らかに社会を変えたいと思っていた。せめて私が私としてある土台を作りたいと思っていた。女子体育くらいは変わるかもしれないが、その前に民衆はそれを求めていないということを最近思う。
その先は誘導ではなく、観客が参加者となり、かつ楽しむために、アーティストもまた消滅していく(みえなくなっていく)と想定しているが、今の観客の力だと、「わかりやすい」「面白い」ものを与えてもらうのを待っているだけで、モスクワプロレタリアートとかと変わらないことになるなあと思ったり。(その危うさを指摘するために建国体操を踊ってみた)
さて、夏至祭はどこへ向かうのがいいのだろうか。人工地獄のその先へ。
きっとどこかで何が起こるかわからない「即興」あるいは「神の声」を聴きつつ、音楽もダンスも観客も皆が巻き込まれながら誰かの意思とも異なる何かが出来上がってしまう現象なのではないかと感じている。
それは私の作品ではないが、私の思想であり、全ての人がフラットであり、そのままありながら、なりたつ奇跡を3回見てきたからこそ言える。これまできてくれた人たちの包容力、受容力、それが今、この世の中で足りなくなっているものなのかもと思う。きっとそういうことの繰り返しが大切なのだろうと思う。
続けて、という言葉はそのせいかなと思う。
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