社会的弱者と呼ばれる高齢者、障がい者。
経済的な生産性だけで判断するとそのようにおもわれがちだが、彼らは表現者としては強い力を持つ。自分の一回生の人生において自分自身と向き合っているからだ。若者はその勢いで突破できる。しかし年齢を重ねるにつれてそれは難しくなっていく。そんな中表現活動を続ける人は大概何かを背負い、そこから逃げ出さず向かい合っている人だ。
多くの人は家族のため、国のため様々な事情で表現活動から身を引いていく。
そしてその方が多くの人にとって、社会にとって幸せなことであると思う。
それでもできなかった人が細々と続けていく。
舞踏はそれまでの西洋舞踊の価値観をぶち壊した。年齢を重ねることの美を見出し、それまで暗黒、暗い、醜い、と言われていた部分に目を向けた(それゆえ暗黒舞踏と名付けられた)。が、本当は日々の暮らしに目を向けていたのだと私は思う。ハレではなくケ。当たり前にある自らの日常を、年老いていくということをどう捉えるか、そのための哲学でもあった。土方時代の様々なパフォーマンスや白塗り、金粉ショーなどの見た目に踊らされがちだが、私が大野さんの家(私は大野さん本人以上にその家族の皆さんから学んだことが多いように思う。家族の大切さを思い知る)から学んだ思想は普通に暮らすことの大切さであった。
それまでの文化では弱いものはないものになっていた。しかし舞踏はその弱きものに着目し、あるべきままにあることを目指した。その先を言うならば「弱く見えるものが持つ、そのままであり続ける強さ」を指摘したい。宮沢賢治の言うベコ石や象のように。
少しずつ見えるようになってきたそれらの弱きものの存在。それらを守り、共に生きていくことができるようにと思う。
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