2020年1月12日日曜日

未来の体育を構想する


未来の体育を構想すると名付けられたプロジェクトは昨年キックオフイベントを開催し、今年、立ち上げられた。お茶の水女子大付属小の神谷先生が中心となり、シンポジウムとワークショップが開催され、およそ200名近くが全国から集まった。
昨年のキックオフイベントも参加し、YCAM未来の運動会にも参加しているので、ある程度知っている人がいるのだけれど、また若い学生さんや企業の方など様々な方に出会う。
ポイントは2点ある。
1つはオリンピックや体育のスポーツ化で競技化する恐れ。そこに対し、ここに集まっている人は運動嫌いの子供たちを少しでも減らしたいという視点でいる。これは小学校教員の参加者比率が高かったせいかもしれない。(逆にいうとなぜ中高がこないのかという話になる。ここはY市の小学校の先生とお話ししたところ、中学からは部活だけが評価対象だし、ある意味教科間の見あう機会もなくて城だから、と言われる)
注目されるような選手になる確率は1%未満であり、それ以外の99%の子達がいかに身体について知るかが大事だろ、そのためにはやっぱり「遊び」に帰っていくんじゃないかというところ。
そもそも小中学校の時代で全国大会が必要だろうか、という疑問が出される。自転車でインターハイ準優勝でも部活によっているべき様々なことが見えなくなっていたのではないかと自転車をやめ農学部で生きる生き方を選んだ学生の声なども出る。
2つめは障がいを持つ子供たちのためにも、あるいは言葉が通じない子供たちとの交流のためにもスポーツができることはもっと大きいのではないかという視点。
発達障害は先天的な部分や遺伝性というのも考えられるけれども運動療法を取り入れることで改善されるケースがあるという小児科医のコメントや、今後増えていくだろう、AIなどでは補えない部分は結局身体に関することではないかという感覚はある。おそらく職業的にも福祉、医療、教育など身体に関するものが残るだろう。
そうした時に自分の身体を知る、身体から考えるというのはすごく大事なことなのではないか。
5教科のサブ科目と思われている体育、でも本当は生きる上で一番大事なことは身体を通して学ぶべきことなのではないか。
だって、ウェブを通じていろんな情報は得られるもの。でも身体は自分だけのもの。自分から切り離すことはできず、そして自分が考える全てのことは自分の身体からしか生み出すことはできない。
女子体育が保ってきた、また追求してきた全ての人が運動し、身体に親しむという視点はきっとこの考え方につながると思う。

一方で芸術というものは明らかにズレがある。
社会から出てしまうもの、逸脱してしまうもの、そしてそれはAIを超えるノイズでありうるかもしれない可能性でもある。
多様であることを目指して助成金がカットされようと、なんだろうと社会に投げ続ける、そんな人はそんなにいたら困る。でも何千、何万分の1、そういう子たちのための授業でありたいと思うし、私自身がそれを体現する人であるのだと思う。あ、多様性は大事ですよ。

私が今していることは理解しにくいとは思う。あの世の声と、現世の声と全部織り込みながら進んでいる。わかるとか言っている余裕はなく、そしてお客様のためにわかるようになんて言っている暇はない。


山口未来の運動会はゴールデンウィーク開催予定だそうです。

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