2020年3月30日月曜日

コロナウィルス にかんして20200330

今回の新型コロナウィルス 対策で星の数ほど舞台公演やパフォーマンスが中止になっている。職業柄舞台に関わる人が多くいるので、心が痛い。それぞれの舞台ごとに思い入れがあるのが分かるからだ。
この数日の間にも代役が回ってきて消えてみたいなことも起きていて、自身のワークショップの企画や鳥取夏至祭など私自身もその渦中にあるのだけれど(実際今も調整が続いているのだけれど)、先のことが見越せないのが痛い。1ヶ月とか3ヶ月とか凡その目安(1年とオリンピックは考えているけれど、それで間に合うのか?という声もある)が立たないので、皆不安になってしまう。

とりあえず生きるための最低限の食、住を確保することが大事なのは分かる。でもそこに私は踊ることも含まれる。舞台で踊る踊りではなく、毎日簡単なストレッチとともに、身体を動かし、空や自然につないでいく作業。広い場所はいらない。でも毎日それは確実に行われる。
生きることに必要なことがその人にとって何かは人によって違うし、そういう人は少ないと思われる。(スポーツクラブで汗を流すというのともちょっと違う)ただ、おそらく人として必要なことなのではないかと私は思い、授業でもダンス以前の身体の話をする。
私のように身体について考えることが日常だと思う人が増えていき、食住と等しく身体となっていったら、今の学業カリキュラムも変わっていくのではないだろうかと思うことがある。医学、東洋医学、漢方などの知識とボディマインドセンタリングや野口体操、GAGAなどの身体知覚を高める運動を行いながら、自身の心地よさを追求するようなもの。それぞれの人が自分で身体を整えることができるようになったらいいなと思う。ウィルスに勝てるようになるわけではないけれど、おかしいなということに気がつくことができるとかそんなことには繋がるだろう。身体には全ての情報が含まれていて、それを私たちは読み解いていく。
演劇もダンスも当事者にとっては特別なことではなく、ずっと継続していくものに過ぎない。どこから特別なものになってしまったんだろう。


舞台公演の中止はやはり悲しい。でもいつかちゃんと花をひらかせようと思ったら、それは次への希望の種子になる。延期というと何か残念な気持ちになるけれど、熟成期間だと思ったらちょっと楽しみになる。大豆と塩と麹を混ぜ混ぜして熟成させると味噌になる。混ぜ混ぜの時にそれぞれの人のもつ菌や空間にいる微生物が入ってその土地でしかできない味になる。ウィルスもきっと悪気があってしているわけではなく、それはもしかしたら熟成しなさいという神様の声かもしれない。
スポーツの場合ピーク年齢がとかタイムがとかあるのかもしれないが、舞台にはそれがないから。もしかしたら一生熟成が続くのかもしれないけれど、その時ごとの美味しさが生まれるものなので、無事花ひらくときを楽しみに待ち続けていたいと思う。




2020年3月29日日曜日

コロナウィルス にかんして20200329

数日とはいえ首都圏に出てしまったので自主的に隔離することとしています。(鳥取はまだ感染者が出ていないので、なおのことうつしてはならないという厳戒態勢)オンライン映像祭Films from nowhereが今日までなので見れていなかった分を慌ててみることにしました。(なお、今日購入するとそこから72時間なのでまだ間に合います。)

自作について追加でコメントをすると3月3日の時の情報で作っているので、少々甘いところもあるけれど、基本的には間違ってはいないと思っています。
確かに軽んじてみてはいけないけれど、マスクをするしないではなく、そもそも人に会わない、手洗いをしっかりする、あちこち触らないなどの対策が重要で、それは自分のためというよりも周りの人にうつさないためです。
オリンピックが延期になった途端に色々動き始めていることを見ても情報がどこまで信用できるかわからず、それは原発事故の時に似ています。そして1938年の頃にとても似ています。ダンスハ体育ナリ?は各上演回ごとに内容が変化(進化)しており、元々のその2は体操や体育が作り出してきた集団性に対し疑問を投げかけるようなものだったのですが、今回、作りながら、政治とはなんだろうかと考えさせられました。
芸術家は河原乞食とはいうけれど、常に一番弱い立場にあり、一番初めに切られてしまう。自律するすべを模索しながらやってきたけれど(結果副業に支えられる)、少なくとも日本では認められないのだと改めて感じています。また、このドタバタに乗じて様々な重大決定がなされていったり、森友事件がうやむやになったりされていく、つまりこのコロナ問題でさえも政治利用されていくそんな状況を悲しく思います。

私はこの何年か鳥取で暮らしたり、地域学部という少々変わった学部で学びながら思うのは、いろんな意味で人間の生活の仕方を変えなければいけないところまで来ているということです。経済活動や進歩だけが幸せに繋がるとは限らない。もう一度自分の大切なものを見直す必要があります。
大切なものは人によって異なるとは思いますが、温暖化問題などと合わせ考え直す必要があるでしょう。これを機に家でゆっくり過ごす時間をもったり、本を読んだり、料理をしたり一見静かで生産的でない活動に見える普段の暮らしを丁寧に行う。それはGDPは下げてしまうかもしれませんが、QOLをあげることには繋がりそうです。

あともう一つ思ったのはこういう時だからこそ、一緒にいようと思う人を大事にすることです。(これは現在留学中の子への返信コメント。帰ろうか迷っているらしい)大概の用事は後ででもなんとかなります。でも、そういうわけにいかない人、場所を大切にすることが大事なのではないかなと。
思えばリーマンショックの時に私は日本帰ろと思ったのですが、コロナに限らず災害は大切なものに気がつかせてくれる機会であったりもします。

2020年3月27日金曜日

DUOの會

笠井叡さんのDUOの会を見る。
コロナウィルス 対策のための活動自粛要請が都から出され、神奈川県で行われるこの演目も土日は中止に。なので、見にいけるかはたは今日どうぞ。

自分の息子(瑞丈くん)に自分を重ねながら、大野一雄の完コピで知られる川口隆夫さんと2人の作品のデュオの復元(というか振り写しと再構成)と新作。途中でその当時の映像と重ね合わせて踊るところもあり、完全に一致する形ではなく(なにぶん即興を重視する笠井さんだ)しかし確実に土台にしていることがわかる。ある意味ダンスアーカイブ的作品(ダンスアーカイブ構想が協力に名前を連ねている)。
ただそれらの合間に笠井さん舞台上に上がってきて、色々話すんです。つまりその時考えていたこと、今思うとどうなのかということ、冷静に分析し、身振りをつけて語るんです。一雄さんの真似もします。つまり笠井さんによる大野一雄分析であり、自分と彼は何が違っていたのかを時代を辿りながら考え直すための試みでもありました。
笠井さんは大野さんの妄想に対し自分は客観的な美しさが欲しかったというけれど、大野さんは妄想ではなく、少なくとも彼の中ではそこに人がいて、そこにあるものと踊っているのであって、それは妄想と言えるのだろうかなどと考える。私も「死者の書 再読」とかはそんなことを思うけれど、見えてないけれど確実にあるものを感じ取り現出させているだけで、それを妄想と言い切れるのだろうか。
逆に言えば人が構築しようとしてもそれだけではできないものなのではないか。
自然や宇宙に対しという人もいれば、神など宗教的な存在に行く人もいるだろう。そして笠井さん自身もオイリュトミー、そしてシュタイナーの影響を受けており、見えないものを追い続けてきたその人が、妄想といって切ってしまうのか、とちょっと驚いた。
彼の作品を年代順におって行くので、ライムントホーゲさんの「私なりのダンスの歴史」に似ている。(私でいうと札幌ダンス(「札幌市中央区南6条西26丁目)や「からたちから」の自己紹介ダンス型)舞踏の大家の人生が垣間見れるとともに2人のダンサーかなりのプレッシャーだろうなあと思う。

個人的に興味を持ったのは
見ただけで身体レベルが歴然と顕れてしまうという恐ろしさ。
私はもちろんダンサー2人とも知っているし、それぞれの良さも知っている(と思う)けれど、笠井さんはちょっと運動というか身体の構造が違う。
笠井さんの舞台も実は何回か見ていて、他の人に振り付けた作品も見ているけれど、おそらく、今日のようにふとした仕草やちょっとした動きの美しさみたいなものはなかなか認識出てきていなかった。
ユニゾンが揃ってる揃ってないとか足が曲がっているとかそういうことはどうでもいいのだけれど、確実にラインがあり、それを引いているのが明確で、年齢を重ねてきたからこそだとも思う。身体がうごけてしまうからこそ、肉でうごいてしまうが本来は骨で動くもの。その動きが研ぎ澄まされていく過程を得ていけば美が残る。
コンテンポラリーダンスという修行でそうなるかはわからないけれど、手をまっすぐにあげるとした時にまっすぐ上がることとかスッとしていることって大事だと思う。それを当たり前に出せるように日々暮らしの中で訓練して行く。
手を上げるんでしょ、って思っている人にはできない思い込みの領域があって、それの継続が美を作る。いつしか当たり前すぎて意識すらしなくなった時にそれはふわりとあらわれる、そんなことを思い出す。(「夢十夜」みたいな話だなあ)

少なくとも笠井さんがバリバリ踊っている時には今回ほど感じていなかったので、普段の笠井さんにいつかお会いしに(観察しに)行かねばならない。

2020年3月25日水曜日

コロナウィルスに関して20200325

大学院時代の恩師に呼ばれて東京滞在。オリンピック延期は予想範囲だけれど(映像で言っていますがいよいよきたか感しかありません)、東京のこの変化のなさ、やばい。満員電車だけではなく、生活形態を変えないままマスクして(私も鳥取ではしないけれど、母が送ってくれた布マスクを持ってきてみたのだけれど)満足している感があって、鳥取県民的には衝撃。深夜でも普通に電車人いっぱい。

鳥取の人たちには外へ出ることや自然の中でスポーツでもウォーキングでもしながらできるだけストレスなく暮らすことをお勧めできるけれど、関東だと自然環境に出るまでが大変なことになる。もう少しテレワークや早めに家に帰ることが起きていると思っていたのでとにかく驚いた。
首都閉鎖起こるかもと思う。それくらいのゆるさ。でも首都閉鎖して生き方見直すくらいがちょうどいいのかもしれない。そんなことも最近思う。


追記:
せっかく出てきたこともあり、ちょっとあっておいたほうがいい友人に会う。あと映画を見る。映画館実はガラガラで、もしかしたら都内で数少ない感染リスクが少ない場所かもしれない(ただしそこへ行くまでの交通機関が問題)。AN archive世田谷クロニクルも観れた。(鳥取の8mmアーカイブの東京バージョン、松本さんたちがやっています。実は友人が設営していたらしいとか、映像編集学生が手伝っているらしいとか色々あって。観に行けてよかったけど予定を早め帰ることにしたのでした。

2020年3月21日土曜日

コロナウィルスにかんして20200321

私の周辺には舞台関係者が多く、その話がぐるぐる回るので、ちょっと特殊かもしれない。アシュフォードさんのAerowaveの延期もそうだが、やはり打撃の話が強すぎる。
ただ、なんとなく昨日訪れた出石(展覧会http://isdrsi.comのオープニング)でも春になった気持ちの緩みか、たくさんの人が訪れていて、もう終わった感が出ていて驚く。これで大丈夫なのかといえば正直わからないだろう。

感染者数は増えているが、しかし日本国内では旅行から帰ってきた人など疑わしい人しか検査をしない状態は続いており、爆発的には増えていない。
インフルエンザでも2019年3000人(関連死を含めると1万人とも言われる)がなくなる国なので、それを思えばまだ少ない方だが、逆にいうと、わからないまま、亡くなっているケースはあるだろう。
全ての人がすでに保菌しているという意識を持ちつつ、少し距離を置いたり、外で過ごす時間を増やしたり、ストレスを抱え込まないようにと思う。

今回観光客の激減など経済的には大打撃を受けている。
でもこういう危機的時であれば時であるほど、農業などで生計を立てているところは食べていくことができるとも言える。つまりちゃんとその土地のものを消費し、食べ続け、その土地の中で経済循環が起きている場合はなんとかなるのかもしれないと近くの愛菜館(JAの運営する直売所)を見ながら感じている。グローバル化し便利になる一方地域に資本が落ちなくなったことが問題で、それを見直し、出来るだけ地域に落とせるようにしていく工夫を一人一人がしていくことをもう一回考えてみる必要があるだろう。

また、このことを機会にリモートワーク、テレワークが広がり、少しずつ地域へと移住が進むのではないかという気がする。(ただし鳥取よりは地方都市という感じはある。鳥取は飛行機以外の汽車などの交通機関がかなり限られているので)生き方を見直すという点では震災の時以来の変換点かもしれないと思う。

森友問題の手記を読んだり、
こんな中でも聖火がやってきていたりと色々大変なことになっていると思う。
オリンピック延期にするべきだと大学院時代の恩師の一人がいう。私もそう思う。
そんな中大学院時代の先生のお呼び出しがかかっていて、今必死で宿題を考えている。
今必要なこととはなんだろう。
自分にとって社会にとって。

2020年3月17日火曜日

コロナウィルス にかんして20200317

これまで経緯を見てきて、そしてウィルスの感染について考えてきて、おそらくここから先は60-80%の人が感染し、免疫ができたり、ウィルスと共存していくという領域に入っていく。
逆に言うと日本政府のゴテゴテだった対策でよかったんじゃん?となりかねないけれど、問題はそこではない。
見えない分やはり不安を煽り、謎に子供達の行動を抑え、それでいいのかといくつかの自治体が疑問を投げかけた。鳥取県内の高校は明日から、一部小中学校も自治体判断で動き始める。そもそもこれらの判断を国が行うこと自体が憲法を飛び越えた行為でもあり(このドタバタで大きく扱われていない)、それを戻していくだけなのだけれど、2月末とは条件が異なり、今はどのように広げパニックを起こさせないかになっていくと捉えている。

もちろん手洗いなどは行うべきだし、高齢者、病床にある方などへの配慮は必要だが、ここから先は経済活動をいかに続けながら、生活を続けていくかにシフトしていくべきだろう。それはEUやアメリカが過敏には判断しているけれども、中国(ただし表に出てくる情報が本当に正しいのかは疑問)や韓国を見て思うことである。

日本にいることで情報が歪むと言うことは結構怖い。
海外の人が入るからと言うのではなく、そもそも検査も十分にしていない状況、そして情報が操作されている可能性。そんな中で私自身は免疫力などもあり生き残る覚悟はあっても、他の人にうつす可能性までは自信はない。
おそらくオリンピック以前に、日本国内の現状は知るべきだし、それを知らないまま抑え込んでいると勝手に思い込むことに不安を覚えるし、現政権のリーダーシップを評価(疑問視)する必要があると思う。

この情報格差。
それが悲しい。


個人的にはオリンピックが延期になると思っている。出場国が減ったためなどの理由をつけ、日本の責任にはならないとして、ごまかすと思われる。
開催できると言う希望を引き継ぎながら、この災いを過ごすのだろう。

私は多くの災いはそれなりの理由があって生ずると感じている。
復興を歌ったこのオリンピック、それでいいのか、と言う神の声にも聞こえる。
いろんな形で無理をし、また人間の力を超えた何かが働いているような気がしていて、ここで踏みとどまれと言われているような気がする。
コロナ、と言うよりは、そもそもの人間の生き方、考え方を見直す時が来ているのではないか、そんな気がする。

オリンピックは中止してはいけないと言われてきた。
実際、過去5回しか中止されていない。(そのうち2回は日本の1940年東京、札幌オリンピックだ!)しかし中止するかしないかではなく、人はいかに生きるかを問われている時ではないのか。
今を生きよ。そう言われている気がする。



2020年3月15日日曜日

緊急事態?

今回なぜ法律改正をしなければいけなかったのかということを一つ考える必要がある。立憲枝野代表はそもそもなぜインフル等特措法を用いないのかと指摘をした。等に含められるだろうということだ。にも関わらず改正をした。そしてそれも審議をすっ飛ばして行なった。さらに現在は緊急事態ではないので運用することはないという。
それをあえて国会手続きをとることにしたから、いいだろうとも言える。
でも本当にいいのだろうか。
山尾志桜里氏の指摘のように緊急事態の内容は私的権限の制限が大きく、危うい少なくともこの政権下では危ういと私でも思う。後から言えばいいんでしょといってごまかしてきた案件がどれだけあるか。さらにいうと、憲法にも載せなきゃですよねとなりかねない、それくらい大きな権限を持つ。
今回、あえて、審議を通し、いいでしょとしたことで、2年間はいつ緊急事態と言われてもおかしくないところまで来ている。すでに多くの国で起きているでしょ(営業停止や外出禁止、集会の禁止)という声もあるが、本来は人々が集い、語る権利は憲法で保障されており、それを上回る権限を今の総理大臣が有するというこの異常さに疑問を抱けないのだろうか。
北海道の緊急事態宣言や既に閉校要請で皆従うことは実証済みなのだろうか。

国家総動員法も国家の危機という時に発令されている。つまり危機的状況を利用して、周囲を固めていくのだ。


昨日わらべ館のワークショップは開けなかったが、金井さんとお話をしながら東京と鳥取ではだいぶん雰囲気が違うという話を聞く。また、もしかしたら屋外でできることとかないかなとわらべ館の館長さんともお話をする。できることは各地域ごとならあるはずで、また、既に全ての人が感染しているという感覚を持った上で行動できることをしていく必要が日本国内では(世界でも)あるのではないかと私は思う。その中でできることを模索している。(わらべ館では4月半ばまでのイベントは中止を既に決定している)


そんな中ギリシャから聖火が送られてくるという。
今、それでもオリンピックをやるのか?
陸前高田に住む小森はるかさんが作った映像が15日まで公開中。震災で被害を受けた人の生活に寄り添いながら作った作品。復興の意味をという内容になっている。
https://note.com/komoriseo/n/n486aed37c334

何かおかしいよね、そんなことに皆気がつかなきゃいけない気がする。


2020年3月12日木曜日

映像の配信について

映像の無料配信について私は結構危惧している。
私たちは作品を作るときにそれなりの時間と労力、資本をかけて作っている。たとえ舞台で行うのがメインでその記録映像だったとしてもそれを作るためのコストがかかる。
今回のような事態で、無料での映像配信に踏み切るカンパニー、ダンサー、振付家もいるけれども、それでいいのだろうかと個人的には思う。
youtuberのように別の方法で収益を得ていくような人もいるが、そういうわけでもなく、また、netflixのような映画、映像作品ほどのクオリティも持っていないからと放出してしまうことで、「踊ってみた」と同じように垂れ流される映像の1つになってしまうことに危惧を覚えた。
あまりにも映像がたくさんありすぎる状況だからこそ、パッケージなり、枠組みを作り、発信していかないと埋もれていく可能性がある。

私は作品は大事だと思っていて、プロフェッションであればあるほど作品は大事にすべきと考えている。公共ホールのオペラ事業やコンサートなどはそれも可能でしょう。ある種の公共事業として収入の形がはっきり確保できる場合、また映像をDVDで販売するために無観客でも上演しなければならないとしたときに、広告として放映するケースもあり、それを否定することはできないとは思います。しかし小劇場演劇、ダンス、その他一般的に行われている公演であればなんらかの課金制度、あるいは寄付制度を作り、自分たちのところに収入として得られる形をとったほうがいいとおもう。

仕事がなかなか厳しい状況なのがわかるので、だからこそなんらかの知恵を出していきたい。

2020年3月11日水曜日

20200311

あれから9年、何が変わっただろう。

地震の大きさもさることながら、福島の問題は何も解決していない。アンダーコントロールとはとてもじゃないが言えないし、鉄道が通ってもそこに住む人が戻ることができない。今でも5万人近い人が避難している(もっと多いのかもしれない)が、そもそも戻る見込みはないままである。
オリンピックによって復興に遅れが見られたり、聖火リレーのために(?!)避難解除出されたり、何かに振り回されているけれど、結局は実際の現場を見ていないからそのようなことが起こる。

東京にいるとわからないことがある。
地域で抱えている様々な問題は東京に全ての富、人が集中していくようにできていて、東京のための仕組みになってしまっているところだと思う。それにメディア(新聞、テレビなど)の加担してきた責任は重いと思うし、子供たちへの教育の仕方も考えていかなければいけないと思う。
私も関東圏から離れて(特に過疎問題を抱えている鳥取だから余計に深刻)感じることができた部分は大きい。中にいるとそれが当たり前で、お金の動きでしか判断できなくなってしまうのだと思う。

原子力発電のトイレ問題(放射能廃棄物処理)問題を合わせて考えてみても、弱っている地域にお金を見せて設置しようとしていく様を見ていても、3月11日のことを忘れているのかと思ってしまう。地元の要望だからという前に、なぜこのようなシステムの異常さが起きているのか考えなければいけない。
電気は大切だ。でも本当に必要な電気はどれくらいなのだろう。
9年前、電気を節約しながら過ごした日常、それで良かったところもたくさん発見できた。そもそも扉は自動ドアでなければいけないのだろうか、エスカレーターは本当に必要だろうか(車椅子の方や足の不自由な方のためにエレベーターなどの配置は必要だとしても)、コンビニだって時短が始まっている。そもそも生き方の形を見直すべきだったのではないか。
人が生きていく上で本当に必要なエネルギーとはどれくらいなのだろう。それは食べるものなども含め。
今回コロナウィルス で戸惑っているけれども、台風や温暖化も合わせて自然からのメッセージのような気がしてならない。欲によって人間は進化してきたかもしれないけれど、本当はすでに持ちすぎていて、何かを得るならば失わなければいけないところに来ている。人は必ずいつかは死ぬし、あの世に持っていくわけにもいかない。静かに自然と戯れながら暮らす生き方へシフトしていくのではないだろうか。「あえて得ない」という生き方。実際あの時多くの友人たちが関西などへ移住した。島嶼部などに住む人もいる。身体に敏感な人が多いせいだろうか。
ネット環境などにより、研究も場所による差異はなくなった。それでも人はなぜ東京に固執するのか。資本主義が作り出したものであり、東京オリンピックをはじめとしたアピールによるものが大きい。電通さんに踊らされているのかなと思うととても悲しい。

補講(http://kannaibunko.com/event/937 3月29日まで公開中)でもちょっとだけ触れている。
未だ5万人近い人が避難を続けている。それは緊急事態とは言わないのかな?
私たちは忘れてはいけないと思うし、終わらせてはいけないとも思う。



2020年3月8日日曜日

『【補講】ダンスハ保健体育ナリ?』

コロナ問題は非常に大きな問題ですが、その背後で緊急事態条項が動いていることが不安です。そんなことも踏まえて、映像版『【補講】ダンスハ保健体育ナリ?』制作中です。すでに撮影を終え(3月3日)、編集中。あまりにも事態が早く進んでいくので、不安なところはありますが、それでも、今できることをしようと思いました。

3月9日から3月29日まで開催中のオンライン映像フェスティバル「Films from nowhere」でご覧いただけます。同僚佐々木さんはじめ現代美術系映像作家の作品が72時間見放題となっていて1000円。無料放映ではなく、あえて有料にしています。

関内文庫 映像祭特設ページ
 http://kannaibunko.com/event/937

 Vimeo 作品レンタル・視聴ページ
 https://vimeo.com/ondemand/filmsfromnowhere/

このレクチャーパフォーマンスシリーズは2016年より続いていて、オリンピックについて触れていることもあり、2、3月に再演予定がありましたがこのコロナ騒ぎもあって消えかけていました。無観客でやろうか、ネット配信にしたらと模索していて、同僚と相談し、映像版を制作することになりました。
いつかDVDにでもしましょうとトライアル撮影していた映像なども織り交ぜ、今の状況でできることを作ろうとしています。

パフォーミングアーツの中止が続いていますが、それでもなんらかの作品制作は続けていくべきと私は捉えています。演劇やダンスは観客がいてこそ成り立つものですが、映像化をすることでまた異なる可能性が生まれるのではないかと思っています。今だからできること、今でしかできないことがあるからです。

パフォーミングアーツの関係者の皆さん、
ワークショップが開けないなど仕事がなくなったり大変な状況だとは思います。ただ、今このような現場だからこそ、何ができるかを考える必要があるのではないでしょうか。芸術文化は常に戦争や革命、様々な困難な時に新しい表現が生まれてきました。私はそのような力を信じているし、きっとなんらかの手段が生まれるはずです。

私は作品は大事だと思っていて、プロフェッションであればあるほど作品は大事にすべきと考えます。鳥取夏至祭という即興音楽とダンスのお祭りを開いていますが、即興に特化しているのはプロも市民も即興であれば同じ立場で遊ぶことができる、その面白さを追求したいからです。しかし作品はそれを作っていくときのプロセスを考えたらそう簡単に無料配信すべきものではありません。公共ホールのオペラ事業などはそれも可能でしょう。でもプロであれば、ちゃんと考える必要があります。
映像配信のプラットフォームのようなものを作ることで表現活動を続けることは可能なのではないか。そのような提案も兼ねて予告させていただきます。

追記
今回ダンスハ体育ナリ?シリーズの蓄積があるとはいえ、最短期間での作品制作となり、1週間後には状況変化があるかもしれず、不安はよぎりますが、それでも今できることをすることにしました。

新型コロナウィルス の影響で舞台芸術の公演が軒並み中止になり、またダンスワークショップもほぼ全て無くなっています。もちろん感染予防の観点もあり、当然だと思います。しかし一方で東京マラソンは開催されました。200人の走者、900人のボランティア。学校が閉鎖されている中高校野球春季大会は無観客で開催予定です。練習できない!という声はあるけれど、え、そこなの?と個人的には思います。
スポーツは行えるけれど、舞台芸術はできないのだろうか。そんなことを思います。
なぜ東京マラソンや高校野球を行うかといえばその放映権料が入らないと大変なことになるからです。それはオリンピックにもいえてだからこそ何としてもオリンピックを開催したい人たちがいます。結局経済なのだろうか。芸術文化は一部のオペラ、バレエなどを除けば経済規模的にはスポーツにかないません。
1972年ミュンヘンオリンピックでテロ事件が起きた際、スポーツ競技は継続しましたが、芸術展示は中止となりました。それでいいのだろうか、と思うのです。(寺山修司がそれに反発するのですが、それはまた別の機会に)
公的な会場での公演ができなくなるのであれば、私的な場所で、あるいは屋外で、様々な形で芸術活動を継続していくべきではないかと私は思います。野田秀樹さん、平田オリザさんの言葉にもありますが、今だからこそできることはあるはずです。

同僚の佐々木友輔さんに相談し、短い映像作品を作りました。免疫を高めるには笑うことが大事だと言います。少しでも笑っていただいて、鳥取行こうかな、と思っていただけたら幸いです。建国体操をお家で一緒に(孤独に)やっていただいても構いません。
木野の元キャラクターや作品とのギャップが激しく、驚かれるかもしれませんが、学校ではこんな感じです。(同僚ですらそう思っていて、時々残念に思います。)


なお、鳥取夏至祭は現在も出演者を募集しています。コロナウィルスの状況次第ではありますし、多くの舞台関係者が上演延期にあっている現状では予定が立たないのが実際のところだと思います。できる限り臨機応変に対応していきますので、ご興味のある方はご一報ください。https://tottori-geshisai.jimdofree.com


国際女性デー

今日は国際女性デーと呼ばれています。
日本はジェンダーギャップ指数で121位と言われていて、女性の社会進出(特に経済、政治領域)が進んでいないことが指摘されています。育児や介護は女性が担うものとされてきたことや非正規雇用、アルバイト、パートといった補助的な仕事に就く女性比率が高いためとも言われています。(うちの学生さんが卒論テーマに選んでいるせいで詳しくなりました)
大学は女性の就職率を上げるため女性限定で教員募集を行ったり(私の時の公募はそのような枠組みでした)していますが、それだけでなんとかできるものではない。そもそも仕事の形を変えない限り難しいだろうと思います。
今回新型コロナウィルス でリモートワークなどが導入されて少し変化していくのではないかと思っています。在宅でできる仕事や場所にとらわれない仕事にシフトしていかねば、子供を育てることはできないからです。と、子供を持っていない身だけれど思う。今の生活で子供いたら絶対破綻している。普通のお家は本当にどのように暮らしているのだろう、、、。

私は舞踊の専門家で舞踊教育の歴史は女子体育の歴史でもあり、舞踊はずっと女子が行うものとして考えられてきました。兵式体操、軍事教練の代わりの遊戯としてあった時代もあり、その変遷を見るとフェミニズム運動ともリンクしていてとても興味深いです。クラシックバレエのコールドが今でも女性で占められていることなどもその名残だよなと思うのです。ダンスが男女共習となりました。しかしそれでも女子体育という名前は残り、また多くのダンス関連教員が女性で占められている状況は逆にあまり良くないと感じています。

ダンスの女子イメージについては学校の授業でも取り上げ、そこからジェンダーについて触れる、そんなこともしています。社会の形を芸術は意図的であれ意図してないものであれ表していることが多いのです。

2020年3月6日金曜日

今後の予定(2020年3月6日)

今後の予定(2020年3月6日)

コロナ問題で大荒れになっている舞台芸術の現状はありますが、その中でも小さいなりに少しずつできることをやっていくことにします。

まず鳥取銀河鉄道祭については2019年度予算ということもあり、リサーチ事業の映像上映会(3月6日、8日)およびドキュメントの製本イベント(3月15日)を対策は行いつつも実施することにします。
鳥取にて感染者が出ていないということもありますが、濃厚接触があるような場所ではなく、また集まる人数も限られていること、追跡なども可能である関係性なので、アルコール消毒などはお願いしますが行えるのではないかと捉えます。
というのはここでこの規模の小さな集まりをも認めないとなってしまうと、会社や家族の普通の会話もできなくなってしまうと捉えての判断です。

今年はオリンピックイヤーということでもともとダンスハ体育ナリ?シリーズの再演をすることが決まっていました。(本来はこの2、3月に東京での公演1回目が予定されていました)しかし、このコロナ問題もあり、できなくなりそうになってきて、色々考えた結果、映像作品としてまとめ期間限定でネット上で見ることができるようにしました。先日(3月3日)撮影を行い、今絶賛編集中。こちらは大学の同僚佐々木友輔さん(映像作家)との共同名義で3月9日から以下のサイトで見ることができるようになります。

3月29日まで開催中のオンライン映像フェスティバル「Films from nowhere」
タイトルは
『【補講】ダンスハ保健体育ナリ?』
構成・出演:木野彩子
映像:佐々木友輔
ということで大学同僚が撮ってくれています。

関内文庫 映像祭特設ページ
 http://kannaibunko.com/event/937

 Vimeo 作品レンタル・視聴ページ
 https://vimeo.com/ondemand/filmsfromnowhere/

今回の企画は外に出ることができない、映画館なども閉まっているそんな状況の中、普段は見ないような違うタイプの作品も合わせて観れるネット上の映画祭を開催し、裾野を広げていきましょうという企画です。佐々木さんとは鳥取夏至祭はじめこれまでもちょっとずつ撮ってもらっていて、昨年から密かに建国体操DVDでも作ろうと思ってトライアルを行っていたのです。それが生かされて、こんな短期間だけれど特別編ができました(正しくは今まだ作ってますけど)。
笑うことって免疫力を高めるんです。何やっても笑いが生まれてしまうコメディエンヌぶりが発揮されています。「死者の書」の方が本来の私に近いと思うんですがどうなのでしょうか。

なお、本来行うはずだった公演分も諦めたわけではなく、時事刻々と変化するこの時勢なので、その時その時に対応しながらいつでも走り出せるようにと思っています。
北海道でもできたらいいな(札幌でもオリンピック開催予定だし)ということで、札幌版も計画中。いずれも事態が収束していくことを祈って希望を持って生きていくためにも設定しました。

そして鳥取夏至祭も開催予定です。ただしこの状況なので、上演家の皆さんは延期した公演などに追われることになる可能性もあります。臨機応変に対応できるよう努めていこうと思います。ご興味ある方はまずご連絡ください。
https://tottori-geshisai.jimdofree.com

これまで人類は数多くの危機的状況に直面してきました。
そしてその度ごとに新しい表現手段、あるいは視点を発見し、芸術は広がり続けてきました。どんなに小さくても、隙を縫いながら表現活動を続けていくことが大事ではないかと私は思います。それこそリアルアンダーグラウンド、ですね。

さて、前へ。
あまりにも早くいろんなことが変わり続けています。前を見て走りましょう。振り返っている余裕はなさそうです。

2020年3月5日木曜日

本当に緊急事態なのか?

コロナウィルス に対して色々な文章を読み、国会の動向に注目し、考えつつ、なんとなく、このウィルスがすでに蔓延しているのではないかという気がしている。
ライブハウスなどの関係者を捜索すると感染者がいるため、まるでそこが原因かのように思われるが実はそうではないのではないか。それだけ蔓延しているから、調べたらそれぞれ出てきてしまうという。
コロナウィルス を封じ込めるために!といって行っている今回の休校措置や、劇場の閉鎖は本当は何が目的なのだろうかとうっすら考えてしまう。

自民党には憲法改正草案があり、その98条、99条には緊急事態に対する備え(緊急事態条項)がある。インフルエンザ特別措置法で十分なはずなのに、あえて渋っていたのは、これを機により範囲の広いものを作りたかったのではないだろうか。しかしそもそもこのインフルエンザ特別措置法も民主党だったから通った法律で、現在の自民党が扱うと思うととても怖い。それくらい個人の自由が制限されていく法律でもある。

一昨年ダンスハ体育ナリ?ドイツ文化センター版で1936年のベルリンオリンピックとナチスドイツのプロパガンダについて学んだ。そしてヒトラー政権は国民の念願によって生まれたことを知った。当時のワイマール憲法は初めて社会権を認めるなど民主的で素晴らしい憲法だと皆思っていたけれど、ただ一つ緊急事態条項があり、それを口実にナチスドイツは大統領令を頻繁に出し独裁政権色を強めていった。それを望んだのはドイツ国民自身であり、それを喜んでいたという時代でもある。
アレントのアイヒマンの話をひくまでもなく、今のコロナの話はちょっと似てて、こういう緊急時なんだから、国がリードを取るべきだ、騒いでるなんて不謹慎だから中止禁止すべきだみたいになっていくこの状況がとても怖い。そして「ほら、早く手を打てたから国がリードしなきゃいけないんだよ、中国みたく」あるいは「法律の壁があってできないと困るからもっと権限与えなきゃダメなんだよ」となるかわからないけれども、地域の実情に沿わないトップダウン型の指示系統を作り出そうとしている感じがしてならない。
大学の改組や学長権限の拡大などもちょっと似ている。こうしないとお金あげないよと言いながらどんどん動ける自由度をなくしていくような感覚。それが今国で起きている。

野田秀樹さんのいう危機感は過去の演劇の歴史を踏まえているからだろう。検閲や禁止に抗いながら戦う演劇人の歴史があるから、演劇の国立劇場はなかなかできなかったんだと聞く。

もちろん感染症が本当に危険なこともあるだろう。しかし、今現れている現象はインフルエンザと大きく違わないレベルに過ぎない。高齢者は確かにリスクを負うことになるが、交通事故や他のがんやインフルエンザ(ちなみに日本でもインフルエンザ関連死は1万人近いだろうと言われているそうだ)を思うとどうなのだろうかという気がしてくる。

これからこのようなことは他にも起こりうるだろう。
地震、台風、原発問題。
その際に私たちはどこまで拘束されるのか、されたいと思うのか、そんなことを思う。

もう一点、何としてもオリンピックを行わないといけないのはテレビ放映権料が大きい。これはマラソンも、高校野球も同じ。つまりアスリートファーストではないし、結局お金だよねという話だったりする。本当は演劇やダンスだって同じ。準備をしていて公演ができなかったら収入入らないし大変なことになる。でもスポーツはなぜできて芸術はできないのか。なぜ図書館や美術館まで閉鎖になるのか。規模が大きければいいのか。国が絡んでいればいいのか。
舞台芸術が弱者であることをこういう時にふと思う。

常に権力は弱いところから突いてくる。
国の行政の中でも一番弱い文科省、特に文化庁。
昨年のあいちトリエンナーレの時にもそれは見え隠れしていた。
それがそのままあきらかになっている。

経済の問題だけではないけれど、そもそも私たちは何を志していくのかが問われているような気がしてならない。

どんな人も明日死ぬかもしれない、いつ死んでもいいと思って生きていこうと私は思う。でもそう思って生きている人たちばかりではないんだということを知った。


そんなわけで明日銀河鉄道祭の映画上映会開きます。対策はしつつ。でもやるべきだと判断しました。また、佐々木さんに協力してもらい「ダンスハ保健体育ナリ?補講編」作ることにしました。映像でおうちでもみられるようにショート版。表現をやめることがないように。小さくても。それでも。

2020年3月1日日曜日

卒業公演

コロナの収束はいつになるか目処が立っていない。
しかし作品作りは続いている。

今日はダンス部さんの卒業公演(鳥取北イオンで開催しているダンスエクステンション)と芸術文化コースの卒業公演(鳥取大学アートプラザ)。
エクステンションは毎年参加してくれている米子からの応援団や特別支援学校の子供達が参加できなくなったため、規模が縮小。またウェブサイトでの告知呼びかけすら行わないという異例の形ではあったものの、上演させていただけただけでも良かったと思う。

大学は卒業式も卒業生と教職員のみと言う形で行うことになる予定である。

首相の一声に翻弄され、学校が休校になり、学童がパンクし、親たちも足止めとなる現状。また多くの舞台公演や展覧会の展示、映画館なども軒並み閉まっていくこの状況。しかしよく考えてみれば、子供達の発症率は非常に低く、あれ?となる。そして文部科学省も「各自治体の判断で」とあとから付け加えている。
地方自治の原則から考えると、学校の休校などは各自治体の判断に委ねられるのが原則(憲法でも地方自治は認められている。第8章)であるにも関わらず、こんなにパニックになってしまったこと自体が危うく感じられる。
これまでのことを考えてみても、もうすでに一定数以上蔓延している可能性もあるのにも関わらず、今するべき施策なのだろうか。

昨日友人の企画する10人程度の集まりに出向いた。そんなに大きな会ではないし、密度も低い(鳥取は広い)。それでも開いていいのかな、と不安になったと友人は話す。それくらいの圧迫感、ストレスがかかっていて、その方が免疫力の低下に影響しそうだ。人が集まり話すことが認められなくなるということの危険性を感じる。また、ここまで国(首相)の言うことに右向け右してしまうところが露呈したとも思う。

屋外空間で行うようなものを企画しようか。
マラソンはOKなのであれば、なんでもありなような気がする。(200人のランナーと900人のボランティアとマスクをつけたたくさんの観客は本当に小規模と言えるイベントなのだろうか。少なくとも鳥取の小中学校よりは過密状態だと思う)

あと、密かに出雲市頑張れと思っている。(当面マスクなど着用の上で通常どうりの運営予定)