コロナウィルス に対して色々な文章を読み、国会の動向に注目し、考えつつ、なんとなく、このウィルスがすでに蔓延しているのではないかという気がしている。
ライブハウスなどの関係者を捜索すると感染者がいるため、まるでそこが原因かのように思われるが実はそうではないのではないか。それだけ蔓延しているから、調べたらそれぞれ出てきてしまうという。
コロナウィルス を封じ込めるために!といって行っている今回の休校措置や、劇場の閉鎖は本当は何が目的なのだろうかとうっすら考えてしまう。
自民党には憲法改正草案があり、その98条、99条には緊急事態に対する備え(緊急事態条項)がある。インフルエンザ特別措置法で十分なはずなのに、あえて渋っていたのは、これを機により範囲の広いものを作りたかったのではないだろうか。しかしそもそもこのインフルエンザ特別措置法も民主党だったから通った法律で、現在の自民党が扱うと思うととても怖い。それくらい個人の自由が制限されていく法律でもある。
一昨年ダンスハ体育ナリ?ドイツ文化センター版で1936年のベルリンオリンピックとナチスドイツのプロパガンダについて学んだ。そしてヒトラー政権は国民の念願によって生まれたことを知った。当時のワイマール憲法は初めて社会権を認めるなど民主的で素晴らしい憲法だと皆思っていたけれど、ただ一つ緊急事態条項があり、それを口実にナチスドイツは大統領令を頻繁に出し独裁政権色を強めていった。それを望んだのはドイツ国民自身であり、それを喜んでいたという時代でもある。
アレントのアイヒマンの話をひくまでもなく、今のコロナの話はちょっと似てて、こういう緊急時なんだから、国がリードを取るべきだ、騒いでるなんて不謹慎だから中止禁止すべきだみたいになっていくこの状況がとても怖い。そして「ほら、早く手を打てたから国がリードしなきゃいけないんだよ、中国みたく」あるいは「法律の壁があってできないと困るからもっと権限与えなきゃダメなんだよ」となるかわからないけれども、地域の実情に沿わないトップダウン型の指示系統を作り出そうとしている感じがしてならない。
大学の改組や学長権限の拡大などもちょっと似ている。こうしないとお金あげないよと言いながらどんどん動ける自由度をなくしていくような感覚。それが今国で起きている。
野田秀樹さんのいう危機感は過去の演劇の歴史を踏まえているからだろう。検閲や禁止に抗いながら戦う演劇人の歴史があるから、演劇の国立劇場はなかなかできなかったんだと聞く。
もちろん感染症が本当に危険なこともあるだろう。しかし、今現れている現象はインフルエンザと大きく違わないレベルに過ぎない。高齢者は確かにリスクを負うことになるが、交通事故や他のがんやインフルエンザ(ちなみに日本でもインフルエンザ関連死は1万人近いだろうと言われているそうだ)を思うとどうなのだろうかという気がしてくる。
これからこのようなことは他にも起こりうるだろう。
地震、台風、原発問題。
その際に私たちはどこまで拘束されるのか、されたいと思うのか、そんなことを思う。
もう一点、何としてもオリンピックを行わないといけないのはテレビ放映権料が大きい。これはマラソンも、高校野球も同じ。つまりアスリートファーストではないし、結局お金だよねという話だったりする。本当は演劇やダンスだって同じ。準備をしていて公演ができなかったら収入入らないし大変なことになる。でもスポーツはなぜできて芸術はできないのか。なぜ図書館や美術館まで閉鎖になるのか。規模が大きければいいのか。国が絡んでいればいいのか。
舞台芸術が弱者であることをこういう時にふと思う。
常に権力は弱いところから突いてくる。
国の行政の中でも一番弱い文科省、特に文化庁。
昨年のあいちトリエンナーレの時にもそれは見え隠れしていた。
それがそのままあきらかになっている。
経済の問題だけではないけれど、そもそも私たちは何を志していくのかが問われているような気がしてならない。
どんな人も明日死ぬかもしれない、いつ死んでもいいと思って生きていこうと私は思う。でもそう思って生きている人たちばかりではないんだということを知った。
そんなわけで明日銀河鉄道祭の映画上映会開きます。対策はしつつ。でもやるべきだと判断しました。また、佐々木さんに協力してもらい「ダンスハ保健体育ナリ?補講編」作ることにしました。映像でおうちでもみられるようにショート版。表現をやめることがないように。小さくても。それでも。
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