2020年3月27日金曜日

DUOの會

笠井叡さんのDUOの会を見る。
コロナウィルス 対策のための活動自粛要請が都から出され、神奈川県で行われるこの演目も土日は中止に。なので、見にいけるかはたは今日どうぞ。

自分の息子(瑞丈くん)に自分を重ねながら、大野一雄の完コピで知られる川口隆夫さんと2人の作品のデュオの復元(というか振り写しと再構成)と新作。途中でその当時の映像と重ね合わせて踊るところもあり、完全に一致する形ではなく(なにぶん即興を重視する笠井さんだ)しかし確実に土台にしていることがわかる。ある意味ダンスアーカイブ的作品(ダンスアーカイブ構想が協力に名前を連ねている)。
ただそれらの合間に笠井さん舞台上に上がってきて、色々話すんです。つまりその時考えていたこと、今思うとどうなのかということ、冷静に分析し、身振りをつけて語るんです。一雄さんの真似もします。つまり笠井さんによる大野一雄分析であり、自分と彼は何が違っていたのかを時代を辿りながら考え直すための試みでもありました。
笠井さんは大野さんの妄想に対し自分は客観的な美しさが欲しかったというけれど、大野さんは妄想ではなく、少なくとも彼の中ではそこに人がいて、そこにあるものと踊っているのであって、それは妄想と言えるのだろうかなどと考える。私も「死者の書 再読」とかはそんなことを思うけれど、見えてないけれど確実にあるものを感じ取り現出させているだけで、それを妄想と言い切れるのだろうか。
逆に言えば人が構築しようとしてもそれだけではできないものなのではないか。
自然や宇宙に対しという人もいれば、神など宗教的な存在に行く人もいるだろう。そして笠井さん自身もオイリュトミー、そしてシュタイナーの影響を受けており、見えないものを追い続けてきたその人が、妄想といって切ってしまうのか、とちょっと驚いた。
彼の作品を年代順におって行くので、ライムントホーゲさんの「私なりのダンスの歴史」に似ている。(私でいうと札幌ダンス(「札幌市中央区南6条西26丁目)や「からたちから」の自己紹介ダンス型)舞踏の大家の人生が垣間見れるとともに2人のダンサーかなりのプレッシャーだろうなあと思う。

個人的に興味を持ったのは
見ただけで身体レベルが歴然と顕れてしまうという恐ろしさ。
私はもちろんダンサー2人とも知っているし、それぞれの良さも知っている(と思う)けれど、笠井さんはちょっと運動というか身体の構造が違う。
笠井さんの舞台も実は何回か見ていて、他の人に振り付けた作品も見ているけれど、おそらく、今日のようにふとした仕草やちょっとした動きの美しさみたいなものはなかなか認識出てきていなかった。
ユニゾンが揃ってる揃ってないとか足が曲がっているとかそういうことはどうでもいいのだけれど、確実にラインがあり、それを引いているのが明確で、年齢を重ねてきたからこそだとも思う。身体がうごけてしまうからこそ、肉でうごいてしまうが本来は骨で動くもの。その動きが研ぎ澄まされていく過程を得ていけば美が残る。
コンテンポラリーダンスという修行でそうなるかはわからないけれど、手をまっすぐにあげるとした時にまっすぐ上がることとかスッとしていることって大事だと思う。それを当たり前に出せるように日々暮らしの中で訓練して行く。
手を上げるんでしょ、って思っている人にはできない思い込みの領域があって、それの継続が美を作る。いつしか当たり前すぎて意識すらしなくなった時にそれはふわりとあらわれる、そんなことを思い出す。(「夢十夜」みたいな話だなあ)

少なくとも笠井さんがバリバリ踊っている時には今回ほど感じていなかったので、普段の笠井さんにいつかお会いしに(観察しに)行かねばならない。

0 件のコメント:

コメントを投稿