あれから9年、何が変わっただろう。
地震の大きさもさることながら、福島の問題は何も解決していない。アンダーコントロールとはとてもじゃないが言えないし、鉄道が通ってもそこに住む人が戻ることができない。今でも5万人近い人が避難している(もっと多いのかもしれない)が、そもそも戻る見込みはないままである。
オリンピックによって復興に遅れが見られたり、聖火リレーのために(?!)避難解除出されたり、何かに振り回されているけれど、結局は実際の現場を見ていないからそのようなことが起こる。
東京にいるとわからないことがある。
地域で抱えている様々な問題は東京に全ての富、人が集中していくようにできていて、東京のための仕組みになってしまっているところだと思う。それにメディア(新聞、テレビなど)の加担してきた責任は重いと思うし、子供たちへの教育の仕方も考えていかなければいけないと思う。
私も関東圏から離れて(特に過疎問題を抱えている鳥取だから余計に深刻)感じることができた部分は大きい。中にいるとそれが当たり前で、お金の動きでしか判断できなくなってしまうのだと思う。
原子力発電のトイレ問題(放射能廃棄物処理)問題を合わせて考えてみても、弱っている地域にお金を見せて設置しようとしていく様を見ていても、3月11日のことを忘れているのかと思ってしまう。地元の要望だからという前に、なぜこのようなシステムの異常さが起きているのか考えなければいけない。
電気は大切だ。でも本当に必要な電気はどれくらいなのだろう。
9年前、電気を節約しながら過ごした日常、それで良かったところもたくさん発見できた。そもそも扉は自動ドアでなければいけないのだろうか、エスカレーターは本当に必要だろうか(車椅子の方や足の不自由な方のためにエレベーターなどの配置は必要だとしても)、コンビニだって時短が始まっている。そもそも生き方の形を見直すべきだったのではないか。
人が生きていく上で本当に必要なエネルギーとはどれくらいなのだろう。それは食べるものなども含め。
今回コロナウィルス で戸惑っているけれども、台風や温暖化も合わせて自然からのメッセージのような気がしてならない。欲によって人間は進化してきたかもしれないけれど、本当はすでに持ちすぎていて、何かを得るならば失わなければいけないところに来ている。人は必ずいつかは死ぬし、あの世に持っていくわけにもいかない。静かに自然と戯れながら暮らす生き方へシフトしていくのではないだろうか。「あえて得ない」という生き方。実際あの時多くの友人たちが関西などへ移住した。島嶼部などに住む人もいる。身体に敏感な人が多いせいだろうか。
ネット環境などにより、研究も場所による差異はなくなった。それでも人はなぜ東京に固執するのか。資本主義が作り出したものであり、東京オリンピックをはじめとしたアピールによるものが大きい。電通さんに踊らされているのかなと思うととても悲しい。
補講(http://kannaibunko.com/event/937 3月29日まで公開中)でもちょっとだけ触れている。
未だ5万人近い人が避難を続けている。それは緊急事態とは言わないのかな?
私たちは忘れてはいけないと思うし、終わらせてはいけないとも思う。
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