2018年11月14日水曜日

かれこれかれこれ20年

こどもたちに会いに東京へ行ったついでに懐かしいいろんな人に会いました。
FTで茶会をテーマに展示・パフォーマンスを行っていたLpack。
あの銀河鉄道事件以来なかなか会えないままになっていたけれど、まさかこの目白で出会うとは。(赤鳥庵は前から狙っていた場所でもあったし、かつて住んでいたエリアに近いのです)
しかもコーヒーではなくお茶。
ユーモアに溢れていて、ちょっと嬉しい。そしてこのパフォーマンスは5回くらいまでにしようねと話しててと言っていて、「だって同じことやってても飽きちゃうでしょ」という彼らの言葉が素敵と思う。じつは銀河鉄道作るんだよという話はさすがにできなくて。それでも、無事を知り少しホッとする。

こどもたちの舞台を観にいったら、昔の演劇仲間に会う。(しかも各回異なるメンツ)かれこれ20年も前のこと(らしい)。〇〇さんはね、〇〇くんはねといろんな話をする。近いところにいながらでもなかなか話すことができなかった人たち。かれこれかれこれ20年、はMobiusに入れた言葉。彼らが20年生きのび、掴み取ってきたものに感謝。お互いある意味ミラクルの連続でした。

私たちは何の為にダンスあるいはパフォーマンスを行うのだろうか。ということです。

私はダンスには身体が欲求する面白さがあると思っています。
そしてそれを多くの人に知ってもらうことが私の仕事だと思っています。
一方で私はダンスの根元にはある種の生贄というか犠牲が払われていると感じています。
私自身の作品は少なくとも一人、あるいは1事例の犠牲のもとなりなってきた。それでも表現しなければいけないものしか表現してはいけないと思っています。

読書会に来てもらおうと思っていた同僚(大学の先生です)はいいました。
とうといと。
神をおろすのだと。
そうか、やっぱりそこを目指すしかないのかもしれません。


当事者として受けている個人プロジェクトだからこそ、俗にいう普遍性とは関係なくできることはある。小さな呟きが広がるように。

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