2018年11月14日水曜日

門限ず(遠田さん、倉品さん)と鳥取横断たび

門限ず(遠田さん、倉品さん)と鳥取横断たび。
今回のメニューは
東部地区交流会
米子児童文化センタープラネタリウム下見・打ち合わせ
イトナミ大山芸術祭
小さなおうち
三朝温泉(カンパネルラの館というのがある)
事務局野口さんの実家にみんなで転がり込む
倉吉未来中心でのワークショップ

と盛りだくさん。
ワークショップでは演劇とダンスの境目をたゆたうということで、ジョバンニの牛乳屋さんのシーン(届いていない牛乳をとりに行くのに断られ、しゅんとなるジョバンニ)と蠍の火(サザンクロスの前に女の子がお話しする長ゼリフ)のシーンを参加者の皆さんで即興的にアレンジして行くワークを行いました。

木野の作品を知っている人はもともと私自身が演劇とダンスの境目にいるので、わかると思うのですが、単純に言葉を発する発しないと言うことが演劇とダンスの境目ではないと私は考えています。私自身が演劇をはなれたのは台詞がとにかく覚えられなかったからというのが大きくて言葉の力の問題だったのですが、それだけなのかなと考えていたのです。遠田さんはダンスは意味をとび越えるというようなことを言っていて、それもわかるのですが、今回最も引っかかったのはAのつもりでやっていることにまったく異なるBの台詞や文章を足して異る意味に演出する手法でした。たとえそのように見えて面白かったとしても私はその「見立て」ができない。
なんらかの演出家が居た場合そういうことも可能かもしれませんが、私はあくまで私という人間のまま私という自分を無くしていく作業を行なっている。

友人の女優さんに聞かれた時、私はあくまで私のままなんですと答えたことがあります。なにかの役に変化することができない。私だったらどう捉えどう反応していくか。だから全ての作品は当事者研究。そしてどんな人の一生であってもそこには普遍性がある。切り取り方や捉え方によるけれども、切実な声は人の心を打つから。
ただその分そんなにたくさんの作品は作れない。自分の言葉で話せることを掘り出して、整理し、人に伝えることが出来るあるいはある種の普遍性のあるところまで行く内容は一生を通じてもそんなに多くはない。だからちょっとずつ作る。そして少しずつバージョンアップしていく。
そんなこんなでセルフドキュメンタリーになって来た最近、かめりあ、からたち、amanogawa。静やMobiusはそう見えない(つまりお話をしてベースにしているよう)けれど、実際に身に起きていることから作られている。ある意味つぎの死者の書も。
なので、極端に言うと「どう見せるか」を考えない。
正しくはパッケージとしては「作る」けれども、見えの問題ではない。どう生きるかという事でしかない。

映像や美術の作品でドキュメンタリーに触れることが増えている。(これは同僚の影響も大きいだろう)それもまた時代の流れかもしれない。普通の人の普通の生活を切り取ろうとする作品たち。そうした時におのづと個人的な題材を扱う事が増えていると思うのです。

カイヨワのあそびの分類は4つに分かれている。アゴン(競争)、アレア(運)、ミミクリ(模倣)、イリンクス(めまい)。模倣に重きがあるかめまいに重きがあるかの違いにちょっと似ていると私は思っています。

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