2018年11月5日月曜日

踊る本能

私はニヤカムさんと仕事をしてきて、あまりにも近くなってきたので、もはや言葉いらないレベルになってきた。一歩間違えるとイタコ状態なので、それは使わないようにしておく。
舞台のあと踊るのが定着したのも私の一言がきっかけだと思う。
ダンスは、見る喜びよりも踊る喜びの方が優っている。
巻き込まれ、踊る楽しさ。

あれは清水でのフェスティバルの後、ニヤカムさんが客席の皆さんを呼びあつめ、子ども達を舞台に上げ、(その服やら靴やらを回収する要員なので舞台には上がらず)一緒に踊るシーンが始まった。振り返ったときにいた男性がぽけっとしていたので、「カーニバルは傍観者が居ては成り立たないんです!」(ちなみにこれはバフチンさんの言葉)と言いながらちょっと強引に巻き込んだ一方で、これに入れない人いるなと思ったのは事実です。今日もたまたま前にいた昔の同僚を巻き込みながら(ちょっとおどおどしていた)入れない人のことを思いました。一定数そういう人はいる。

うわーっと盛り上がって楽しい。
そしてみんなが一緒になる感じ。
私はダンスの楽しさとして捉えていて、アフリカンダンスの場合は動きも簡単だし皆入れると思っていました。私はニヤカムさんが大好きで、素晴らしい才能だと思いつつも、重要なことを思い出しました。
私は舞台で踊っているとき楽しいとは思っていないという事実です。

作品をつくるモチベーションは何かという今日の電話(取材)に全てのパーツがはまり、作らざるを得ない状況になるからだと答えました。今ここでつくるべき時というのがやってきて、そうしたときにわたしはダンスという形式で作るしかない。(人によっては文章だったり音楽だったり様々ありえるでしょう)

楽しい楽しいと踊る子供達を見つつ、大人達も見つつ、感覚のズレを初めて意識したのはそのときです。幸せとはなんだろう。楽しいってなんだろう。いつから私は踊ることを楽しめなくなったんだろう。

この盛り上がりは音楽ライブにも似て、楽しい。でもそこに入らないことの自由があるべきだったのかと思ったり。カリスマ性に引っ張られていないかと思ったり。
一般の人には楽しい経験だし、良い機会だと思う一方で、こういう形なのだろうかと悩み、また私はニヤカムさんではないので、ああいう展開はできないと考え、即興に手を出すことにしたのが夏至祭の始まり。少なくとも私はああやってみんなを引っ張ったりリードしたりはできないので、それを起こす環境を設定しようと試みてみました。私が踊ることを楽しいと思っていた時代はいつだっただろうかと考えてみたところフランスにいた頃、音楽の子達とギャラリーに集まり、毎週謎のライブを行っていた頃ではないかと思いだし、鳥取夏至祭のイメージができました。
皆のヒエラルキーを一回ぶっ壊して、出会いを生み出して行くということ。
でも無理強いはしない。


それはもしかしたら強力なリーダー的存在が必要いらなくなるのではないだろうか。そうなって欲しいと信じたい自分がいます。




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