2019年12月24日火曜日

教育大学協会舞踊研究会

教育大学協会(通称教大協)舞踊研究会が岡山で開催されていってくる。
@岡山シンフォニーホール

国立大学はもともと各都道府県の教育と医学を担う人材育成のために設置され、教育学部と医学部から分化していった歴史がある。舞踊は体育に含まれていたことから保健体育部門に属するが、研究と実践の場として研究発表、ワークショップ、上演と学校間交流を行う目的から研究会が発足し、今年で39回を数える。国立大学とはいえ、ダンスの専門教員がいない学校も増えつつあり、教員の定員の削減が急激に進んでいる。また鳥取大のように教育学部がなくなってしまう学校もあり(なので私は地域学部国際地域文化コース創造性とコミュニティプログラムの教員である)、参加者も減少しているが、ここ数年私立や短大(幼児教育系)の先生方の参加も増えてきている。

鳥大はすでに保健体育教員の養成はなくなっており、私自身も教員養成課程を受け持っていないので、ダンス部さんのみが参加している(逆にいうとダンス部さんが参加したいというので私は必然的についていかないといけない)。とにかく行動力があるダンス部さんなのだ。

様々な学校の演技を見ながら、創作ダンスについて考えさせられる。私自身もこの大学ダンスの中にいたのだけれど、それでも当時から批判的に見ていたところがある。ストーリー仕立てだったり、笑いに持っていったり、でもそれだったらなぜ話さないんだろう。お客さんが「わかる」ように作らなければいけないってなんでだろう?集団の中で明らかに浮いてしまう自分について考え、そして結果として一人で作品を作るようになった大学時代から基本的に変わっていない。そして枠組みを作って体をその中に放り込むという手法に向かっていった。枠組みを作るのに物語や神話や舞台構造を使っていて、そこに理論があり、その先に届くために「身体を放り込む」。普段の生き方で身体の「あり方」を作っていくことにした。だから私の身体を使って実験を常に行い続け、身体が変容していくことを見続けていく。
現在私の授業のうち専門科目で行なっているものについては考え方についての講義と実際にワークショップを作ってみるという試みにしている。ダンスの作り方とはそのまま体に対する見方と考え方で、多様な考え方をいかに舞台上にのせていくかが問われていく中、皆で考えをまとめて一つのテーマを表現しようという時代ではない。そして人によっては最終的に出来上がったものは踊りではない手法となるかもしれないが、それで良しとしている。
そもそも集団で表現をする前に、自分の考えを持ち、発することができるための場が必要だったりしているので、こういう集団性だけで疲れてしまうらしい。様々な身体があって良いということを鳥取の人に知ってもらうために鳥取夏至祭を始めた身でもある。ダンスハ 体育ナリ?というレクチャーパフォーマンスも作った。しかも1の時は女子体育の歴史、2の時は体操の大流行とダンスの体操化について触れ、?までつけた。
創作ダンスのプロセスが合わなかったから自分のやり方を考案してきたし、創作ダンスのアンチテーゼとして存在してきたのにそのシステムを守るために動かなければいけないのだろうか。すべての子どもがダンスに触れる機会を作りたい、その気持ちはよくわかる。現状としてはダンス必修化から10年が経過したけれども運動会・体育祭のダンスを除くと実際の授業でダンスを行なっている比率は50%程度にとどまっているという。さらにいうとその多くは現代的なリズムのダンスと称しているもので、先生やビデオのダンスを覚えて踊るというものが多い。それよりは近いのかもしれない。でも、それは少なくとも私が踊りたいダンスではない。

会場を借りたり、照明をつけたりということで舞台上演はお金がかかる。学生の公演ということでチケット収入もそれほど高くない。協賛を集めても限界はある。さらに各大学から集まってくるための交通費、宿泊費もかなりの金額になる。(これは夏の神戸の大会でも言えることで、鳥取大は参加できなくなった分のお金を使って鳥取で自主公演を開くことにしたくらいの予算がかかる)
そもそもこの大会の継続意義についても考えなければいけないところに来ている。創作ダンスとはなんだったのか。体育でなければいけないのだろうか。創作ではないダンスではダメなのだろうか。創造性とは何か。
現在あるシステムを根本から見直していくこと。そこから新しいものは生まれてくる。

来年は愛知教育大学での開催です。




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