2019年12月15日日曜日

スポーツサイエンス入門

スポーツサイエンス入門という名前の授業を担当することになった。本当はスポーツ系の先生が担当していたのだけれど、人文系も人文科学という点ではサイエンスだろうということから瀬戸先生(鳥取大学にいる人類学の先生。なんと応援団の研究をしていて、いつかご一緒したい)が入れてくれた。無茶振りだけれど、とりあえず頑張ってみる。

今年初めてで3コマ分ということで
明治期からの女子体育の歴史、(ダン体1)
昭和初期の幻のオリンピックと体操の大流行(ダン体2)
スポーツの進化
とし、まとめる。

グローバル時代の国家と社会と重なりそうでありながら、スポーツと体育についてフォーカスを当てることで、よりわかりやすくなったと思う。
さらに学生たちとの話により、ダンスは特別な人がするもので、苦手、できない、恥ずかしいの三点セットが出てきて、これ、なんとかしたいよねと思うんだよねと話しながら、見られることや他者に評価をされることで恥ずかしさが増してしまうということを指摘した。
そうじゃない、みんなそれぞれに身体があるからそれぞれの表現があり、それぞれの面白さがあるんだという当たり前のことをなぜ教育は否定するのか。それは教師がそうしたいだけではないのか。
ダンスは恥ずかしいか。に書いたように、学校教育がダンスの可能性を狭めてきたことは否定できないと思う。

なぜ技術の習得に向かってしまったのだろう、見栄に向かってしまったのだろう。

最後の授業では芸術スポーツ(新体操やフィギュアスケート)で何を美とすると言えるのだろうか、手足の長さや身長やそういう見た目で美しいか美しくないかを判断していいのだろうかということを時代の変化とともに見ていくことをした。ザギトワが事実上引退したようにより若く、より細くを目指していくことは幸せなのだろうか。成熟した女性の美しさ、あるいは年をとった人の生き様もまた美しい。それが競技だからといって切り捨てて良いのだろうか、それは幸せなのだろうか。
スポーツ選手の引退後のセカンドキャリアは常に問題になる。(バレリーナも40歳定年のパリ・オペラ座がストを行なっている)怪我を含め体を壊していく選手たちをみ、そこでしか評価できないこの世の中が残念だなと私は個人的に感じていてそれを取りあげてみた。
工学部学生も多いことからYCAMの未来の運動会やゆるスポーツ協会の運動を取り上げ、テクノロジーとスポーツの持つ可能性やスポーツはアスリートのためのものではないという考え方、スポーツを作るという視点を取り上げるとそれはアートとなっていく話をした。

最後に、ミュンヘンの1972年オリンピックを取り上げてテロがありながらも競技を継続したIOC、(誤報を発しても続けさせたことも含め)と一方で芸術展示としての上演は全て中止となり、寺山修司はセットを燃やしその件に抗議したという事例を取り上げた。
(他の作家たちはデモ行進を行ったらしい。これら寺山の「死者の書」に記載されている)
そもそもミュンヘンの芸術展示はオリピックを批判的に捉えるようなものが求められたそうで、歴史を踏まえた内容であったという。芸術はテロに屈せざるを得ないのだろうか。
あいちトリエンナーレの電凸でテロを起こす側を取り締まるのではなく、被害者を罰する(助成金を交付しない)ようなこの国を見たら彼はなんというだろう。
表現の自由とは、そして芸術の持つ力とはということを問いかけて終了することとした。



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