2019年11月11日月曜日

ダンスを今行う意味

演劇はそもそもの始まりから政治とのつながりが深くありました。
ギリシャ悲劇・喜劇を見ても、当時の人々にある種問いかけ、そこから様々な意見を誘い出すための仕組みであった。
それに対し舞踊は元々が宗教的な祈りや鎮魂に基づいている。言葉がないせいもあり、より普遍的な領域に向かっていると思う。

現実的にこれまで演劇は社会を動かしてきた。が現代においては様々なメディアに追われ、社会的な影響力は落ちている。しかしそれでもある種の理念を発していくことは大切であると私は思っている。

小さな声を私たちは届けなければいけない。

私は舞踊の人間として、今この世の中には祈りが必要だと考えている。
神様というものを信用はしていない。様々な神がいる。
身を賭して捧げること
社会を変えていくための運動かそんな違いがあると最近感じている。


今日のフォーラムでダンスはそもそも皆で一緒に踊るものだったのではないですか?という問いかけがあった。
実際に様々な祭りにおいてそのような姿は見受けられる。
そのような儀式も多くある。
しかし、私は自然の発露であると捉えています。自由に、伸びやかに。
あの機械的に同じダンスを踊る同調性がなぜここまでもてはやされるようになってしまったのか、実はかなり重要な視点であると思います。
踊りとは何か。
演劇とは何か。
生きるとは何か。

難しい側面はあるけれど、私が今ダンスを作る意味はただただこれ以上の死者を出さないためと、私の大切な人たちを守るためだと私は思っています。すでに死んだ身としてはこれ以上の犠牲を出さないための努力と工夫を重ねてきました。鳥取銀河鉄道祭はいろんな意味で迷惑もかけたけれど、それぞれが得ることがあり、学んだ場だったと思っています。



追記
今日お会いした記者さんに舞踊の元々はみんなで踊るものだと思っていましたと言われました。集団性のあるダンスが流行り、それはすでに音楽に乗せられて踊る体操と変わらないよねというのが「ダンスハ体育ナリ?」の趣旨となっていますが、宗教儀式も皆で同じ動きをし、模倣しながらそれを伝搬していったもの。
カイヨワによればミミクリ(模倣)とイリンクス(めまい)の遊びである舞踊。同じ動きを行なっていくことによる感覚の共有、場の形成、シンクロニシティが舞踊の持つ力であるとすれば、また、自分自身の融解と他者との融合は確かに大きな特徴の一つで、だからこそ舞踊は宗教的だと感じます。
自分自身の中身を空っぽにし、そこに何者かを到来させやすくするための行為であり、それを導きやすくするのが振りであり、同じ動きをするということが目的ではないと私は考えます。また、自由にといえば自由になのですが、自己表現というものとは異なります。楽しいから踊るというのと異なってしまった時に、それを一般の人に広めるということではなく、自分は自分の仕事(研究とも求道とも言える)としてそれを追求していくことを志しています。
元々体育教師だった頃、自分が踊っているダンスと教えるダンスにズレがあり、おかしいなと思っていました。それを明確にするための作品が「ダンスハ体育ナリ?」であり、それを経て、そもそもこの世の中で需要のあるダンスと自分の踊りとの間にズレを感じるようになりました。未だ解決していません。そしておそらく生涯この違和は続いていくものと捉えます。
その違和を明確化し、私が預かったものを昇華していくのが現在私が作品を作るという作業です。



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