2019年11月22日金曜日

授業やってるんですかという質問に対して

ここしばらく銀河鉄道まで減らしていた授業のツケが回ってきていて、とにかく毎日パワポを作る日が続いている。入門などのクラスだとオムニバスが多くて、ダンス全般の概要を説明するみたいなことになる。
パフォーミングアーツ入門ではダンスの歴史を3回、実際に踊ってみる授業が1回、
スポーツサイエンス入門ではダンスハ体育ナリ?に出てくる明治期からの舞踊教育の歴史とオリンピック、芸術スポーツと呼ばれるものに関してで3回。
前期にやっていた芸術入門、ダンスと多文化コミュニティもなんやかんやと入門なので、結局にたような話を何回もする。
さらにはスポーツ健康とか。
でもそれ最低条件で、そこまできてやっと今私がやっていることの話になって、創作ダンスの領域ではない話に入れるのだから仕方ない。逆にいうと、ダンサーを育てるわけじゃないけれど、自分の専門に入るまでに話すことが多く、私はほぼ自分の専門の話ができていない。

3年生たち(現在の夏至祭、銀河鉄道祭で育てた子たち)がやっと少し理解する。2016年に作った「mobius」と南方曼荼羅の話や、教育の弊害について、また昨日は「初期シェイカー聖歌(ウースターグループ)」の話やシュタイナーの話をしながら、神とか霊とか呼ばれる私ではないものの関与についてお話をする。先週は中動態の話をした。
この見えていないものの存在をなんと呼ぶか、人は様々に工夫してきた。それを現出化させるのが舞踊であるとするならば、踊り手の個性や主張は必要なくなっていく。

ある一定のレベルまでであれば訓練していない体の方が面白いことがある。ノイズにあふれているというか、想像を超えた動きが出てきたりもする。しかしこの領域を見ようとした時に訓練ではなく、それらを消す作業をしなければ微細なものが見えてこなくなる。
面白いとか面白くないの問題ではなく。
人は空気が変わると話す。

従来の教育で求められている像でもないし、少なくとも見て面白いかどうかではないので、エンターテイメント化も難しいだろうとした時に、圧倒的に美しい何かに昇華するくらいしか考えられない。でもそもそも人に見せることを前提条件にすべきかどうかも分かりかねる。
舞踊は明らかに宗教に近く、それらを呼び寄せ、感じ取るようなものであった。
ただわかること、共有することを目指すのであれば言葉で話せばいい(私は半分演劇人として演劇の持つ力も信じている)が、それをあえて避けたのは主体的にものを感じ取るための工夫であろう。受け取る側がアクティブでなければ感じ取れない。そのような微細な現れを作り出す。
それが「死者の書」や「mobius」で行ってきた試みでもある。



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