2019年9月13日金曜日

月下の踊子

今日は中秋の名月らしく、美しい月が見れました。
千葉や伊豆大島など台風の被害が出ているところも多々ありますが、それでもまた陽は昇り、月は照る。そんなことを思います。

戦争はなぜなくならないのだろうという素朴な疑問からロジェカイヨワの戦争論を読みました。
NHK100分の名著で取り上げられていたのですが、ちゃんと元の文読まなきゃと思って読んでみました。カイヨワさんは「遊びと人間」以来きのの論文に度々登場するのですが、この書は初めて。でもそういえば「人間と聖なるもの」でも同じようなことを言っていました。
戦争と祭は似ています。
「戦争と祭りはともに社会の痙攣である」
巨大な聖なるものに身を投じる行為であり、危険をあえて犯していくそんなところがまさしく。
人間の中にある闘争心、それは本能なのだということはわかってはいてもあまり認めたいとは思えなかったのです。
私は修士論文の中で舞踊の中にある種のカオスを求める衝動があり、ある時には破壊行動につながる危険性も有していることを指摘しています。作品「ダンスハ体育ナリ?その2」でもオリンピックで破壊されていく瓦礫の中から舞踏や様々なパフォーマンスアートが生まれてきたことを指摘し、ルールに則って人間の管理の中にあるスポーツとの根本的な違いを明らかにしてきました。
根本的に違うけれども、そのエネルギーを利用できないかとしてマイルドな形にまとめたのが鳥取夏至祭であり、銀河鉄道祭であると捉えています。
インド(ヒンドゥー)の神もまた創造神であると同時に破壊神で、破壊から生まれるものがあることを知りました。
それは私の周りで様々に起きていく人の死を自分で受け入れられるようになるために必要な旅であり、また作品製作であり、それらを通じて当事者研究のように自己を受け入れるようにと思っていました。
しかし、人間と聖なるものは確かに修論時に読んでいて、しかしそこを抜け落ちて忘れていたところが情けないのですが、もしかしたら、今気がつけと神様が言っているのかもしれません。おそらく避けることができないというこの事実。そしておそらくそれでも生き延びる人は生まれることでしょう。でも私はおそらく「ダンスハ体育ナリ?その2」で指し示すようにそこまでして生き延びていこうとは思わない。大野一雄が敵を目前にして逃したように(逆に逃げたように)。

このような悲劇の繰り返しの上に私たちは生きており、それを見続けていたのが月であり、そしてこの月は世界のどこにでも同じように照り輝いている。月の光の下で踊りましょう。今日は踊るにはいい日です。(明日も満月のようでいいでしょう)


おまけ
スコットランドからアンジーさんという演劇の人が来てお話しする。なんだか盆踊りに興味があるらしく、いろいろ教えてあげた。専門だから詳しくて当たり前なんですけれど。今年行った新野の盆踊りまで説明する。先月のマリアに引き続きやはり皆盆踊りに興味がある様子。


「月下の踊り手」は牧野先生の作品。踊ることしかできないのだろうか、そんなことも思いつつタイトルにさせていただきました。


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