2019年9月4日水曜日

福島三部作

Dull Clour Pop(劇団名です)の福島三部作を見る。

福島を題材に福島出身の劇作家が描いた三部作の連続上演。3作品それぞれ2時間計6時間の超大作。原発ができる前の誘致の頃の話、原発にどっぷり浸かっている当時の話、そして東日本大震災後の話。それぞれが重く、また現代の日本をあぶり出しており、色々考えさせられる。

現代の世相を切り取る演劇って実は少なくて、ブレヒトやチェーホフやシェークスピアや様々な古典劇を翻案している上演(今の時代で捉えるならば、あるいは〇〇に置き換えてみるなど)が多くあるが、なぜだろうと思っていた。コンテンポラリー演劇って言うのだろうか。今この日本で起きていることは前代未聞なことが多すぎて、特に福島については未だ見えないことが多くある。そこに切り込んでいると言う点でもとても良いチャレンジだと思って見に行った。(当日券ダッシュ、しかも大阪だから)

そして気がついたのは演劇とは叫べない人の代わりに叫ぶ行為なのだと言うこと。能の場合は死者だし、今回の戯曲もすでにこの世にいない人といるけれど、声に出せていない人たちの言葉を精一杯叫んでいた。
懐かしの小劇場演劇を思い出し、熱演をみる。
ダンスの人間としてはそこまで叫ばないなあ。レクチャーパフォーマンスは叫んでいて結構近い。(演劇とダンスの中間くらいのところだと我ながら思う)でも当事者だからか、おそらくそれを笑いに転嫁する。演劇の場合自分じゃないものだから振りきれるのかと言う当たり前のことを認識する。

福島の話は終わっていない。
まだ続いていて、そして、都会ではそれを見ないことになっている。それを明らかにすることがこの芝居の目的だとしたら、それは正解だ。オリンピックという大きなイベントにごまかされ、飲み込まれそうになっているけれど、そこでもう一度見るための公演。
今回都市部(東京、大阪)の次に福島で公演を行うという。その渦中の人々はどのように受け止めるのか、とてもきになる。そんなに簡単ではない。でもこの芝居を見て、こんなんじゃないと言い始める人が出てきたら、それはとても意義あることだと思う。

何も終わっていないし、何も解決していない。
しかし原発は再び動き出そうとしている。

それを経済成長と呼ぶのであれば成長しないあり方を考えたいと私は思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿