2019年9月9日月曜日

作品とはどこからを指すか

小林勇貴くんのジェンダーとセクシュアリティに関するショーイングを見にいく。

昨年DNAでご一緒し、スポーツと身体というテーマもあり、お話ししていたので、タイミングがあったついで(ごめん)見にいくことにした@ゲーテインスティチュート。

ゲーテさん昨年の「ダンスは体育なり?」も見てくれて喜んでくれていたのだけれど、非常に自由度が高く、面白い試みを行っている。今回は小林くんのレジデンスとホールでの発表ということになっていたが、そのレジデンススペース(アパート)もパフォーマンス会場として解放し、観客もパフォーマーも行ったり来たりしている。

1週間の間、午前中に簡単なトレーニングと、午後、夜はジェンダー問題などを話し合ったり、即興を行ってみて色々言い合ったりということを繰り返し、各アーティストがやりたいことをやるという形になっている。つまりディレクションは入っていない。
ショーイングを行い、講評があるが、でもこれは何を見せたいかという「作品」と言えるのだろうかと思うと疑問が残る。

ジェンダーやセクシュアリティといった大きな問題は個人ごとに考え方が異なり、その違いを露呈させていくためにもこのような同時多発的なかつ即興性も含めた柔軟なストラクチャーを作り、個々人に演出を委ねるということがおこる。
これは私の場合でいうと鳥取夏至祭で試みていることと似ている。各個人が自立し、主体的に参加するためにできる限り口を挟まない。皆が動きやすいように交通整理は行うけれども、相互協力を促していく。
つまり私(あるいは小林くん)の存在は失われていく(理論上は)。
今回はタイトルにジェンダーとセクシュアリティと入れていることもあるし、そのような活動をしている人が集まっていたのである種の偏りが生まれており、それがキュレーションと言えなくもないが、それは作家小林くんとはまた別のものだ。

このようなトライアルが増えていくことは好ましいと思うし、また問題を深めていくことができればいい。そしておそらく作品としては製作過程をドキュメント化していくことで様々な意見のあり方、多様な社会を見えるようにしていくことができる。しかしそうなっていくとパフォーマンスとしてのショーイングの意味は減る。これはAmanogawaプロジェクトと同じ。
つまりコンテンポラリーダンスやコンテンポラリーアートが多様性を打ち出せば打ち出すほど、そのような形でのある種の参加型かつ緩やかな構成のある表現に行き着くしかないのではないかとも思う。プラーターナーを見たときにもちょっとそんな感じはした。もちろんフィックスしているところが増えていくのだけれども。各出演者が担っている比率が高くなる。

パフォーマンスというジャンルは(ダンスもだけれど)インパクトが求められがちで、特にセクシュアリティというテーマになるとどうしても裸体による表現や服を着るか着ないか問題に言及してしまう。そしてある種わかりやすい記号化された身体に収まってしまいがちで、そこなのかなということは少し思う。服装、靴、長い髪、はだか、ペインティング、白塗り、1960年代のパフォーマンスが彷彿とされるカオス空間。ちょっと舞踏の人たちに近くてある種の先祖返りみたいな何かを感じる。今、私たちはどこにいる?

0 件のコメント:

コメントを投稿