2020年4月7日火曜日

コロナウィルスに関して20200407

こんな話がある。
「明日たとえ世界が滅ぶと知ったとしても、僕はリンゴの木を植え続ける」
ルターの言葉らしいですが、たまたま今日寺山修司に関する本を読んでて出てきた言葉。

この新型コロナウィルスは誰がかかるかわからないし、もしかしたら周りの誰かがかかるかもしれない。そして亡くなる可能性もある。もちろん人は交通事故や地震など様々なことで亡くなりうるのだけれど、文字通りいつ死んでもおかしくない世の中になってきた。
例えば変な咳が出て、調べたら即入院で、そのまま家にも帰れず死を迎えるそんなこともありえなくはない。

なので、会える人、会うべき人にはあっておいた方がいいし(もちろんウェブとかでも良い)、できることは今のうちにした方がいい。例えば緊急事態宣言で行きたかったところに行けなくなるなんてことも予想できる。
でも最も大切なことは、植えたからといってりんごは収穫されないだろうし意味がないように思えるその日常の行為こそが一番大切だということだろう。意味があるかどうかではなく、私は何をしたいかだ。そしてそれをすることができること。特別なことである必要はなく、むしろいつも通りに過ごすこと。(残念ながら今日は確定申告に行かねばならず朝稽古ができなかったけれど)
それがおそらく幸せの一つの形なのだと思う。

毎日の稽古もそれに似ている。

するべきことが終わって、これは世の中全部が変わるべき時なんだなということを感じる。仕方ないところもあり、そこでなんとか生き延びねばという強い野心がない。ただ、静かに自然とともに生き、自然とともにある一生命体としてするべきことを行いそして死んでいくまでな気がする。
もちろんITなりワクチンなり、ES細胞なのか様々なテクノロジーは進化し、それによって生き延びる人もいるだろう。でもそれは私の身体ではない話だ。

本来の生きるべき時間を超えて生きてきて、予想外の出会いや、新しい発見もある一方で、もう十分な感じがある。

桜は今年も咲いている。例えば世界中の人口が何十万と亡くなったとしても、たとえ人類が滅亡したとしても(でもおそらく宿主でもあるので、そう簡単には人類が滅亡することはない)桜は咲き続ける。「主なくとも庭の椿は咲き続ける」(かめりあより)
人間は主と考えているが、本当は人間もまた地球全体にとってはウィルスのようなものに過ぎず、その中で様々な感情や言葉のやり取りがあるけれども、それぞれの人になすべき役割があるはずで、それを一つ一つこなし、地球や宇宙とのバランスをとって静かに次へとゆづって行く一生命体に過ぎない。

きちんとなすべきことをする。



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