2019年10月9日水曜日

表現の自由についてその後20191009

あいちトリエンナーレにおける表現の不自由展が再開され(とはいえ、30人ずつ2回の限定公開なので、完全再開とはいえないが)、それに合わせ、出展作家たちが展示の再開へと動き始めた。それまでの展示が撤去されていたり、扉が閉じていたりという状態が改善され、死んだ状態から生き返ることができるのか。ここで大きな問題にならないことを心から願う。

鳥取大で親しくしている文化政策の先生が文化庁事業であいちトリエンナーレの助成金を審査する側でこれらの経緯を鑑みて、審査員の辞任を申し出た。つまり自分たちが行なった審査を議事録もなく、却下した国の姿勢を問う。国が(そしておそらく文部科学省が)第3者による審査、協議の過程を全て覆したということが問題で、しかも議事録がないというのが異様とも言える。
単純なアーティストの表現の自由云々ではなく、国とは何か?を今問わねばならないところに来ていると思う。
これはあいちの問題以前にも公文書の書き換えの問題や、モリカケ問題でも言えることで、既成事実を作ってしまって、どうせ気がつかないだろうことを見越して政治が進んでいるのと同じ流れではないだろうか。防衛費がどんどん急上昇していることやそれに伴い消費税も上がること、法人税は下がること、富を集中させていくことで経済を回していこうという現在の考え方は国のために奉仕してねという意図が見えている。
長く芸術活動そのものはある種のガス抜きとして使われてきたところがある。戦時期も宝塚や江口・宮、石井漠といったモダンダンス、吉本のような芸人も国の意向を汲み取りながら活動を継続させてきた。一部の団体が恩恵を受けるということは受けられないところも出てくるが、それは切り捨てる。その形が今でも残っているんだということを思い知る。

私は1アーティストとしてどんなに小さな声であったとしても考えていることを表現できる世の中であってほしいと願っている。たまたまとはいえ公的な仕事についているが、だからこそ、うちこわしていくそういうアクションを起こしていくべきだと感じている。新しいものは常に破壊から生まれる。既存の概念を打ち崩して新しいものを作り出していく。本来芸術活動はある種のマイノリティの言葉にならない言葉であり、経済効率や、数の論理ではないものを認めていくことで多様な価値のあり方を作り出していくことである。つまり全ての人がわかり、楽しむようなものではない。そんなものがあるならば、それで経済活動が成り立つだろうし、支援をする必要などないだろう。なので、個人的にはジブリ美術館できればいいと思うし、作って良いと思うけれど、そこに大金をつぎ込むような公共性は残念に思う。
むしろ、わかる人にはわかるしわからない人にはわからないこれから生まれ出てくる新しい可能性に投資をすることが求められている。

もともと自分の作品をほぼほぼ自力で回してきた小さな作家に過ぎない。国に頼らず、周りの人たちのご厚意に甘えながら、ちょっとずつ自己探索を続けていく、ある種の修行を続けてきて、経済活動と切り離して自分の作品を作る努力をしてきたとも言える。
「ダンスハ体育ナリ?」のように再演を繰り返している作品もあるが、小規模で、その代わりその時代に必要なものを必要なタイミングで出してきた。

そんな立場から現在県の芸術祭(3年計画、予算規模2500万から500万減)、文化庁の大学事業を預かる身となり言動に気をつけなければいけないとセーブしている自分がいる。例えばとりアート事業部会で観客数の予想を説明するとき、予算を説明するとき、内容についても参加者募集が終わっていなくてまだどんな人が参加するかわかっていない段階であらすじと台本と構成表を求められる。そんなわからないものは宣伝もできないし、誰も見にこないと言われる。
こんなところにこんなにお金をつぎ込むべきではないと言われ3年目にして突然予算が削減される。それをカバーするべく大幅に予定を変更する。
確実にいいものはできるだろう、そしておそらく人も集まってくるだろう、そのように考えてはいるし、ある程度キャッチーな内容の選別、また作品のスタイルを選んではいると思う。そういうところもある意味自分でセーブしている。しかしこれから作るものに対して確実なものはない。
今も模索は続いている。
そしてできるだけ多くの人に鳥取で起きているミラクルは見てもらったほうがいい気がする。

一方でそのミラクルを作るために自分の作家としての思考は一回停止させている。


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